内的・外的・超越的トライアングル ― マーラー第6番、アイヴス第2番、メシアン《トゥランガリラ》

音楽

カツカレーカルチャリズム的“多層響き”論

19世紀末から20世紀にかけての交響曲は、単に長大で複雑な形式を持つだけでなく、響きの方向性が作曲家によって根本的に異なることがある。マーラーは内側からの圧力を音に変換し、アイヴスは外界の雑多な音を切り貼りして自らの世界に取り込み、メシアンは超越的・観念的な視座から光の層を音響として降ろす。これら三者を並べて聴くと、まるで内的煮込みカレー、外的トッピングカレー、天上の祝祭カレーという三つの異なる“カレー体験”のように、それぞれの多層性が鮮やかに立ち上がる。

 マーラー第6番 ― 内的多層性の暗い沼

マーラーの交響曲、とりわけ第6番は、外部から借りてきた音楽素材の重なりではなく、心の内部にある層が同時多発的に鳴りだすことによって多層的に聞こえる。作曲当時のマーラーはオペラ指揮者として劇場運営や観客の好みに細心の注意を払わねばならず、さらにユダヤ人として社会的な視線に晒されるという複雑な立場にあった。その圧力の集積が音楽に反映され、第6番には特有の緊張感と断裂が刻み込まれている。

第6番の「運命のハンマー」は、作曲時点で実際の悲劇が起きる前に書かれたにもかかわらず、内的な不安や恐怖が音楽として先取りされているかのように聴こえる。アルマの証言によれば、マーラーは夢のような状態で音が暴れるのを感じながら作曲していたという。この内的な葛藤が、重層する旋律や対旋律、マーチやアルペンホルン風の旋律の不調和として表れ、単なるポリフォニーとは異なる、互いに否定し合う層の存在を聴き手に伝える。こうした内部の衝突は悲劇性を伴い、音楽の重みをさらに増幅させるのである。まるで複数の人格が同時に音として現れて皿の上で煮えたぎっているカレーのように、マーラーの第6番は内的世界の圧力で混ざり合ったカツカレーそのものだ。

グスタフ・マーラー

アイヴス第2番 ― 外界を自由に取り込むコラージュ

これに対してアイヴスの多層性は、内的な葛藤によるものではなく、外界の音を自在に取り込み、切り貼りして表現するコラージュ的な性格を持つ。アイヴスは保険会社の経営者として確固たる地位を築き、作曲活動は完全に自由であった。そのため、芸術界や観客からの圧力に煩わされることなく、子どもの頃に父から受けた「二つのバンドが同時に演奏してもよい」という体験を音楽に変換することができたのである。

第2番には賛美歌や行進曲、大学の応援歌が唐突に現れ、それぞれが干渉せずに共存する。マーラーのように内的葛藤から生じる悲劇性はなく、むしろ街角の雑踏や祭り囃子をそのまま楽譜に写したかのような、自由で明るい多層性が特徴的だ。特に終盤のクライマックスでは、異なる旋律が重なり合いながらも衝突せず、むしろ音楽的な祝祭感を生み出している。アイヴスの多層性は、外界の音をそのまま皿に盛り付ける屋台トッピングのカレーのように、自由で楽天的な音響体験となっている。

チャールズ・アイヴス

メシアン《トゥランガリラ交響曲》 ― 超越的多層性の光

マーラーとアイヴスの多層性が地上の内的・外的世界から生まれるのに対し、メシアンの《トゥランガリラ交響曲》は、神的・超越的な視座からの多層性を示す。作曲者の深いカトリック信仰、神秘主義、色彩聴覚、鳥の声の研究などが複雑に絡み合い、オンド・マルトノや管弦楽器の層が独自の速度や旋律で浮遊する。これらは単なる外界の模倣ではなく、神の秩序や光の象徴として作曲者の内面に降りてくるものである。

例えば第5曲「星たちの血の歌」では、打楽器の華やかさ、分厚い管弦楽和声、オンド・マルトノの旋律が互いに独立しながらも巨大な秩序を形成する。これはマーラーのような内的葛藤やアイヴスのような外界の祝祭とは全く異なる、多層性の「光の秩序」として聴こえる。音楽がまるで天井から降ってくる光の粒子のように聴き手の意識を拡張し、宇宙的なスケールで多層を体感させるのである。

オリヴィエ・メシアン

内的・外的・超越的トライアングル
こうしてマーラー、アイヴス、メシアンの三者を並べると、多層性というひとつの言葉では括りきれない、響きの“方向”そのものの違いが、まるで三角形の頂点のように鮮明に立ち現れる。多層性とは重ねる技法や構造の問題ではなく、どこへ向かって層が伸びていくのか――内側なのか、外側なのか、あるいは天上なのか――という、作曲家に固有の世界観の現れである。

マーラーの多層性は、あくまで自己の裂け目に向かって堆積していく。そこでは旋律と対旋律、行進曲と自然の呼び声が互いに噛み合うのではなく、互いを押しのけながら鳴り続ける。内的圧力が音響の層そのものを生み出しているため、音楽は常に「統合寸前に崩壊しそうな緊張」をはらむ。これはマーラーの精神史とも呼べるもので、ユダヤ人としての孤独、オペラの現場での疲労、完璧主義ゆえの自己攻撃性が、音響の多層そのものの形を決定していく。第6番を聴くと、層の厚さはそのまま葛藤の厚さであり、濁りと澄明が交互に現れる亡霊のような音楽空間が広がる。つまりマーラーにとって多層性とは、自我が自我を追い詰める過程で自然発生的に生まれる“重力場”そのものなのである。

反対にアイヴスでは、多層性の発生源は自我の外部にある。彼は世界を“素材の棚”として捉え、賛美歌でも行進曲でも、街角のざわめきでも、思い出の音でも、それらを境界なく取り込む。そこには苦悩による濁りはなく、むしろ「音が同時に存在してよい」という父親譲りの寛容さが支配している。アイヴスにとって層とは、世界に既に漂っている音を拾い集め、それぞれを好きな角度で配置することで生まれる自由なコラージュである。第2番の層はマーラーのように互いを否定しない。街の景色が重なり、異なるバンドの曲が空気中で交錯しても、アイヴスにとってはすべてが“世界の自然な状態”なのだ。この外向的で解放的な層の作り方は、作曲家自身の環境――作曲を生計にせずに済んだ独特の立場、アマチュア精神の肯定、実験に対する恐れの無さ――とも密接に結びついている。彼の多層性は、世界から音を借りるのではなく、世界そのものがすでに複層的であるという感覚から生まれてくる。

さらにメシアンは、この内と外の軸を一気に超えて、垂直方向――天上へ向かう軸を持ち込む。メシアンの層は、人間世界の混乱や街のざわめきとは異なる“超越的秩序”を前提としている。彼にとって多層性とは、色彩と光が時間に浸透しながら降りてくる現象であり、作曲者の内面と外界の現実が一致する場所は天上にある。鳥の声、聖書の言葉、神秘主義的時間感覚、そしてオンド・マルトノの電気的な光――これらはメシアンの意識において同一の層に位置し、地上の重力から解放された一つの“天的世界”を構成する。とりわけ《トゥランガリラ》では、旋律の層、リズムの層、色彩の層がそれぞれ独自の秩序をもって動き、互いの速度が異なるにもかかわらず、ひとつの巨大な光の建築物として成立する。これはマーラーのような緊張の層でもなく、アイヴスのような外界引用の層でもない。音そのものに“聖なる角度”を与えることで立ち上がる、超越的な多層性なのだ。

この三者をカツカレーカルチャリズム的に例えると、さらにその違いはわかりやすくなる。
マーラーは、内的煮込みの過程で味が複雑に混ざり合い、苦味も甘味も溶け込みながら重く沈殿するカレーである。鍋の底で対立した具材が共存しつつも緊張し続ける、密度の高い味わいだ。
アイヴスは、屋台のカレーのように、通りすがりの食材をどんどんトッピングしていく。具材同士はケンカせず、むしろ並列で並ぶことで祝祭的な景色をつくる。
メシアンは、香辛料そのものが天から降ってきたかのような光のカレーで、食べるというよりは“受け取る”味に近い。味覚の層というよりも、光と香りが多層的に重なる体験だ。

ここで重要なのは、この三角形が単なる美学・技法の比較にとどまらないということだ。多層性の発生源そのものが、作曲家の精神構造・宗教観・世界との距離感に根ざしている点である。内側に深く潜る者もいれば、外界に身を開く者もいる。あるいは世界を超えた光の次元から音を受け取る者もいる。多層性とは、作曲家の生そのものが音の形を借りて表面化した結果であり、技法はその影に過ぎない。

この視点から20世紀音楽を見直すと、多層性は一枚の地図のように広がって見えてくる。マーラー、アイヴス、メシアンという三つの頂点を結ぶことで、音楽史の中にさまざまな“中間項”――例えばブーレーズの構造的多層性、ストラヴィンスキーの文化コンタミネーション的多層性、リゲティの微細構造的多層性――を位置づけられるようになる。つまりこの三角形は、20世紀音楽における多層性のコンパスのような働きを持つのだ。

そして聴き手にとっても、このトライアングルは音響体験の方向性を示す実践的な指標となる。自分はいま、音楽の“内側”へ沈んでいるのか、“外側”の世界と接続しているのか、それとも“垂直方向”へ意識が引き上げられているのか。三者の比較は、音楽を聴く身体の感覚そのものを拡張し、聴取という行為に立体的な深みを与えてくれるのである。

あーとむーす画 アクリル B4

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