カツカレーカルチャリズム画家列伝46 ~リキテンシュタイン 編

アート

機械のふりをする身体のリキテンシュタイン

出典:Artpedia/ロイ・リキテンシュタイン

アメリカ的イメージ装置の中心で

ロイ・リキテンシュタインは、20世紀後半のアメリカ美術を象徴する存在である。彼の作品は、ポップアートという枠組みの中で語られることが多いが、その重要性は単なる大衆文化の引用や風刺にとどまらない。リキテンシュタインは、アメリカという国家が生み出した巨大な生産と消費のシステム、そのシステムを駆動させる「気配」やエネルギーそのものを、絵画の形式として可視化した作家であった。

コミックの一場面、広告的な色彩、原色と太い輪郭線。これらは誰にとっても即座に理解可能なイメージであり、そこには深読みや象徴解釈を拒むような明快さがある。しかしその明快さは、決して軽さと同義ではない。むしろリキテンシュタインの画面には、感情や物語があらかじめ定型化され、流通のために整形された世界の構造が、冷ややかに固定されている。

彼の描く涙や爆発、恋愛のセリフは、個人の内面から噴き出したものではなく、消費社会があらかじめ用意した感情のフォーマットである。ここには表現の自由よりも、表現が規格化される時代の必然が描かれている。リキテンシュタインはアメリカを批評するというより、アメリカがすでにそうなっている姿を、余計な注釈なしに提示した。その無言性こそが、彼をアメリカ美術のアイコンたらしめている。

ドットを描くという禁欲

リキテンシュタインの作品を特徴づけるベンデイドットは、印刷技術に由来する合理的な視覚装置である。しかし決定的なのは、それが機械印刷ではなく、手作業によって描かれているという事実だ。無数のドットを均質に、感情を排して描き続ける行為は、表層的なポップさとは正反対の、極めて禁欲的な制作態度を要する。

もし彼が単に大量生産社会を再現したかったのであれば、写真転写や印刷技術を用いることもできたはずである。それでもなお手描きを選んだ点に、リキテンシュタインの核心がある。彼が描いているのは機械そのものではなく、機械になろうとする人間の姿である。効率では決して勝てない相手に、あえて同じ形式で挑み続ける。その非対称な努力の中に、20世紀後半における絵画の倫理が刻み込まれている。

一瞬で消費されるイメージの背後に、膨大な制作時間が隠されているという二重構造は、アメリカ的消費社会の矛盾を内側から露呈させる。表面は軽く、内容は即物的でありながら、その成立には人間の時間と集中が不可欠である。このズレこそが、リキテンシュタインの絵画を単なる図像の再利用以上のものにしている。

出典:Artpedia/ロイ・リキテンシュタイン

フラットベッドからスーパーフラットへ

リキテンシュタインの登場は、ラウシェンバーグのフラットベッド・ピクチャー以後の地平と深く結びついている。ラウシェンバーグが絵画を垂直な窓から水平な作業面へと変えたとすれば、リキテンシュタインはその水平面をさらに均質化した。感情も爆発も悲劇も、同一の記号密度で処理され、ヒエラルキーは消失する。

この平面性と均質性は、後のスーパーフラット理論とも共振する。村上隆が展開したスーパーフラットは、日本的消費文化と戦後視覚環境を背景に、奥行きの否定と記号の等価性を徹底した運動であった。その構造は、直接的な影響関係を超えて、リキテンシュタインの問題設定と同じ地盤に立っている。

ただし両者には決定的な差異も存在する。リキテンシュタインが個人の身体を抑圧しながら均質を目指したのに対し、スーパーフラットは工房制と分業によって身体そのものを制作から退場させた。機械になろうとする身体と、身体を不要とする機械。この差異は、両者の倫理の違いを明確に示している。

ヒップホップ的反復とモダニズムの切断

リキテンシュタインの制作をヒップホップ的比喩 ― ループ、サンプリング、グルーヴ ― で捉えることは、単なる現代的言い換えではない。それは彼の仕事が、モダニズム的時間意識を内部から切断し、結果としてポストモダン的感覚へと移行していく過程を、より精密に捉えるための有効な視座である。

モダニズム美術は、基本的に「前進する時間」を前提としていた。様式は更新され、表現は深化し、作家は常に新しさを引き受ける存在として位置づけられる。抽象表現主義における身振りの一回性や、表現の不可逆性は、その典型である。そこでは、同じことを繰り返すことは停滞であり、後退であった。

しかしリキテンシュタインが導入したのは、前進ではなく反復である。コミックの一コマを取り出し、それを拡大し、ドットによって再構成する行為は、オリジナルの更新ではなく、既存イメージのループ化に近い。しかもそのループは、完全なコピーではなく、必ず手描きというズレを伴う。これは、ヒップホップにおけるサンプリングが、原曲を消去せず、むしろ原曲の時間を現在に引き戻す行為であることとよく似ている。

ヒップホップにおいて、ループとは時間を進めるための装置ではなく、時間を留め、掘り下げるための構造である。同じ小節が繰り返されることで、聴き手は進行ではなく、質感やノリ、すなわちグルーヴに意識を向ける。リキテンシュタインのドットもまた、物語を前に進めるのではなく、表層の質感に視線を縫い止める。涙は流れない。爆発は終わらない。すべてが「今」の強度として固定される。

このとき起きているのは、モダニズム的進歩史観の静かな中断である。リキテンシュタインは、モダニズムを否定したのでも、乗り越えたのでもない。ただ、その時間軸を使わなくなった。その代わりに導入されたのが、反復と引用によって成立する別の時間感覚である。これは、後にポストモダンと呼ばれる感覚と重なり合うが、重要なのは、それが理論先行ではなく、制作の現場から生じている点である。

サンプリングされるモダニズム

ヒップホップがジャズやファンク、ソウルをサンプリングする際、それらを過去の遺物として扱うのではなく、現在形の素材として再起動させるように、リキテンシュタインもまた、モダニズム的絵画を素材として扱った作家であった。彼の画面には、構図の厳密さや画面分割の意識といった、きわめてモダニズム的な要素が温存されている。

つまりリキテンシュタインは、モダニズムを切断しつつも、完全に放棄したわけではない。彼はそれをサンプリングし、別の文脈に配置し直した。感情表現の代わりに定型イメージを、筆触の代わりにドットを用いることで、モダニズムが重視してきた形式的厳密さを、消費社会の表層へと移植したのである。

この操作は、ポストモダン的折衷とは異なる。そこにあるのは、すべてを相対化する軽さではなく、むしろ形式への異様な忠誠である。ヒップホップが、古いレコードを愛情と執念をもって掘り下げるように、リキテンシュタインもまた、既存イメージの内部構造を徹底的に掘削した。その結果、作品は皮肉にも、非常にストイックな強度を帯びる。

出典:Artpedia/ロイ・リキテンシュタイン

フリーズされたループと演奏されるループ―ウォーホルとリキテンシュタイン

アンディ・ウォーホルとロイ・リキテンシュタインは、ともに「反復」を中核に据えながら、その反復の質において決定的に異なる地点に立っている。この差異は、様式や主題の違い以上に、時間の扱い方、身体の位置づけ、そして美術がどのようにモダニズム以後を生き延びるのかという問いに深く関わっている。ヒップホップ的比喩を用いるならば、ウォーホルはフリーズされたループを提示した作家であり、リキテンシュタインは演奏され続けるループを引き受けた作家である。

ウォーホルのシルクスクリーン作品において、反復は時間を前進させるものではない。マリリン・モンローの顔やキャンベルスープ缶が並列されるとき、イメージは強調されるのではなく、むしろ空洞化していく。同一性が重ねられるほど意味は薄れ、感情は摩耗し、イメージはただそこに在る状態へと移行する。この反復は、時間が凍結された状態、あるいは永遠に更新されない現在を提示する。

このフリーズされたループには、制作主体の退場が伴っている。ウォーホルは自らを機械になぞらえ、判断や感情を制作から遠ざけた。スクリーンという技法は、作者の手の痕跡を消去し、イメージを均質に複製する。その結果として現れるのは、誰のものでもないイメージが、誰の責任でもなく回転し続ける風景である。これは、テレビや広告、マスメディアが作り出す時間感覚と極めて近い。見る者は、そこに参加することも、介入することもできず、ただ凍結された反復を受け取る存在となる。

一方、リキテンシュタインの反復は、常に時間と身体を引きずっている。ベンデイドットは均質に配置されているように見えながら、実際には一つ一つが手作業によって描かれている。そこには必ず微細なズレが生じ、そのズレが累積することで、画面全体に独特の緊張感が生まれる。リキテンシュタインのループは、機械的フォーマットを忠実になぞりながらも、完全には同一にならない。ここでは反復は凍結ではなく、持続として現れる。

この差異は、ヒップホップにおける二つのループ感覚とよく対応する。ウォーホル的反復は、DJが一つのブレイクをそのまま固定し、操作を加えずに回し続ける状態に近い。音は鳴っているが、演奏は起きていない。それに対してリキテンシュタインの反復は、打ち込みのビートを生身の演奏者が叩き続ける状況に似ている。フォーマットは与えられているが、その都度、身体のリズムと集中が要求される。

この「演奏されるループ」において重要なのは、反復が意味を消すのではなく、質感を浮かび上がらせる点である。リキテンシュタインの画面では、物語は進行せず、感情も解決されない。しかしその代わりに、ドットの密度、色彩の配置、輪郭線の強度といった表層の要素が、見る者の身体感覚に直接作用する。これは、ヒップホップにおいてメロディやコード進行よりも、グルーヴそのものが聴取の中心となる状況に近い。

この違いは、モダニズム以後の美術がどのように時間を扱うかという問題にも直結している。ウォーホルは、モダニズムが前提としていた進歩や深化の時間を一気に停止させ、その廃墟を提示した作家である。彼の作品は、ポストモダン的状況を一望できる強度を持つ一方で、鑑賞者の身体をそこから切り離す冷たさを伴う。

それに対してリキテンシュタインは、モダニズムの時間を停止させるのではなく、別のリズムへと組み替えた。前進ではなく反復、深化ではなく持続。その選択によって、絵画は意味や表現の媒体から、リズムを発生させる装置へと変化する。演奏されるループとしての絵画は、鑑賞者を完全に突き放すことなく、微細な同期を要求する。

この点で、リキテンシュタインはウォーホルよりも不安定であり、同時に長く有効である。フリーズされたループは制度や構造を鮮明に示すが、その強度は一度理解されると固定されてしまう。一方、演奏されるループは、見るたびにわずかな違いを生み、体験として更新され続ける。その更新は新しさではなく、再演として訪れる。

両者の差異は、ポップアート内部の多様性を示すと同時に、ポストモダンへの移行が単線的ではなかったことを明らかにする。ウォーホルが冷凍保存した世界のイメージを提示したのに対し、リキテンシュタインは、そのイメージを引き受けながら、なお描き続けるという選択をした。フリーズされたループと演奏されるループ。その間に横たわる距離こそが、1960年代アメリカ美術の内部に存在した緊張であり、今日に至るまで反復され続けている問題系なのである。

出典:Artpedia/アンディ・ウォーホル

日本的反復との決定的違い――写経・文様・リキテンシュタイン

リキテンシュタインの反復を、日本的な反復の伝統 ― 写経や文様 ― と比較するとき、両者のあいだには一見した類似と、それ以上に決定的な断絶が存在する。いずれも反復を通じて形式を維持し、個性を抑制し、均質性を志向する点では共通している。しかし、その反復が向かう時間の方向と、そこに置かれる主体の位置は、大きく異なっている。

写経における反復は、時間を前進させるためのものではない。むしろそれは、時間を循環させ、自己を空洞化させるための行為である。一字一字を同じ姿勢、同じ呼吸で書き写すことで、書き手は自己の感情や判断を薄め、より大きな秩序へと身を委ねていく。そこではズレは修正され、誤りは正され、最終的には「誰が書いたか」が問題にならない状態が理想とされる。

文様においても事情は似ている。唐草や麻の葉、青海波といった反復文様は、始まりも終わりも持たず、画面の端で切断されてもなお、無限に続くことを前提としている。その反復は、意味や物語を語るためではなく、世界がすでに秩序づけられているという感覚を視覚的に支えるためのものである。反復はここで、安定と持続を保証する装置として機能する。

これに対して、リキテンシュタインの反復は、決して循環へと回収されない。彼のドットは均質を目指しながらも、必ずズレを孕み、そのズレが消去されることはない。重要なのは、そのズレが「誤り」として修正されない点である。むしろズレは、演奏の痕跡として積み重ねられ、作品の緊張を支える。

日本的反復が、主体を消去し、形式の中に溶け込むことを理想とするのに対し、リキテンシュタインの反復は、主体を完全には消しきらない。彼は機械になろうとするが、決して機械にはなれない。その不可能性を、否定も克服もせず、そのまま制作に引き受ける。ここに、写経的反復との根本的な差がある。

また、日本的反復が多くの場合、超越的な秩序や自然観と結びついているのに対し、リキテンシュタインの反復は、徹底して世俗的である。彼が反復するのは、仏の言葉でも、宇宙のリズムでもなく、印刷物として流通するイメージである。その反復は救済や調和をもたらすのではなく、むしろ消費社会の平坦さと、その中でなお続く労働の感覚を可視化する。

この点で、リキテンシュタインの反復は、日本的文様の無限性とは逆向きの時間を持っている。文様が「どこまでも続く」ことを示すのに対し、彼の反復は「同じことを何度でもやらなければならない」という労働の時間を示す。そこにあるのは永遠ではなく、持続であり、救済ではなく反復の疲労である。

村上隆はいかにして日本的反復をフラット化したのか

村上隆の仕事を、リキテンシュタインおよび日本的反復の延長線上で捉えるとき、最も重要なのは、彼が日本的反復そのものを否定したのではなく、その精神的深度を意図的に無効化し、表層として再配置した点にある。写経や文様が本来担っていた宗教性、自然観、循環的時間を、村上はそのまま引き継ぐことを選ばなかった。

日本的反復において、反復は「意味を薄めるため」ではなく、「意味を安定させるため」に存在していた。反復されることで、世界はすでに秩序づけられているという感覚が保証される。だが、戦後日本において、その秩序はもはや超越的なものとしては機能しえない。村上はこの断絶を直視した最初の世代であり、反復を精神修養や美的調和として回収することを、最初から放棄している。

ここで村上が行った操作は、日本的反復を西洋モダニズム的に批評することでも、リキテンシュタイン的に労働として引き受けることでもなかった。彼は反復を、最初から「完成されたフォーマット」として扱う。文様やキャラクターは、描き続けられるものではなく、配置され、増殖し、流通する単位として機能する。

このとき反復は、時間的な持続を失い、空間的な平面へと圧縮される。村上のスーパーフラットとは、奥行きの否定であると同時に、反復が孕んでいた時間の深度を切断する操作であった。写経が積み重ねの時間を必要とし、リキテンシュタインが演奏としての持続を要求したのに対し、村上の反復は即時的であり、同時的である。

この即時性こそが、村上が日本的反復をフラット化できた最大の理由である。反復は、修行でも労働でもなく、視覚的快楽と商品的価値を同時に生成するエンジンとして再設計される。そこではズレや疲労は排除され、反復は常に同じ強度で提示される。

その意味で、村上の反復は、ウォーホルのフリーズされたループに近接している。ただし、ウォーホルが主体の消去によって反復を凍結したのに対し、村上は文化的文脈の整理と制度化によって反復を平面化した。日本的反復の霊性は、否定されるのではなく、流通可能な表層として脱色される。

ここでリキテンシュタインとの差異も明確になる。リキテンシュタインは、反復を演奏として引き受け、身体の時間を手放さなかった。一方、村上は身体の時間を制作の中心から切り離し、反復をシステムとして完成させた。その結果、反復は疲労を伴わず、永続的に増殖可能な形式となる。

この操作によって、村上は日本的反復を、精神的循環から資本的循環へと接続することに成功した。スーパーフラットとは、日本文化の深層を肯定する運動ではなく、その深層がすでに機能しないことを前提に、なお成立する視覚形式を抽出するプロジェクトだったのである。

出典:Artpedia/村上隆

反復の三類型とカツカレーカルチャリズム

ここまで見てきた反復は、大きく三つに分けることができる。第一に、写経や文様に代表される循環的反復。第二に、リキテンシュタインにおける演奏される反復。第三に、村上隆におけるフラット化された反復である。

カツカレーカルチャリズムの視点からすれば、これらは単なる東西比較ではなく、混ざり方の質の違いとして理解される。村上は、日本的反復とポップ/オタク文化を混ぜたのではない。むしろ、反復を一度空にし、もっとも食べやすい形で再調理した。その結果、生産・消費・快楽が矛盾なく同居する料理が成立する。

しかしその料理は、写経の禁欲性も、リキテンシュタインの労働的グルーヴも含まない。そこにあるのは、常に同じ味で提供される完成度の高さである。この完成度こそが、村上隆が日本的反復をフラット化できた理由であり、同時にその限界でもある。

ウォーホルが世界を凍結し、リキテンシュタインが世界を演奏し続けたのに対し、村上は世界を平面に展開した。反復はもはや時間の問題ではなく、配置と流通の問題へと変換される。その地点で、スーパーフラットは、ポストモダン以後の日本から生まれた、きわめてローカルで、同時にグローバルに理解可能な戦略として立ち上がっている。

出典:Artpedia/ロイ・リキテンシュタイン

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