カツカレーカルチャリズム画家列伝44 ~草間彌生 編

アート

草間彌生 ― オブセッション、ケア、そしてカツカレー的成功

出典:Artpedia/草間彌生

オブセッションという原点 ― 時代に迎合しない内的必然

草間彌生の制作を貫いているのは、様式や流行ではなく、きわめて私的で切迫したオブセッションである。彼女の創作は自己表現や美術史的な野心から出発したものではない。幼少期から続く幻視や強迫的イメージ、自我が溶解していく感覚に対し、制作行為は生存のための防御装置として機能してきた。描くことをやめると崩壊してしまうという感覚は、初期の無限網や水玉にすでに刻印されている。

重要なのは、このオブセッションが当時のアートシーンの要請とはほとんど無関係に形成されていた点である。60年代ニューヨークのミニマリズムやポップ・アートが冷却化や匿名性、形式的明快さを志向するなかで、草間の反復はあまりに身体的で、病理的で、私的だった。そのため彼女の作品は同時代の枠組みには収まりきらず、しばしば過剰で制御不能な異物として扱われた。しかし、その「異物性」こそが草間の核であり、後年まで一切変わることはない。

出典:Artpedia/草間彌生

90年代という転換点 ― ケアの言語が追いついた時代

草間彌生が世界的に大きく再評価されるのは90年代、とりわけ1993年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館以降である。この再浮上は突然の成功というより、評価の側の言語がようやく整った結果と捉えるほうが正確だろう。冷戦終結後、近代美術を支えてきた進歩史や形式主義の物語は失効し、代わって記憶、トラウマ、身体性、生存といった主題が前景化した。

この流れのなかで、ルイーズ・ブルジョワをはじめ、長らく周縁に置かれてきた作家たちが再照射される。彼女たちの作品は、痛みを克服する物語ではなく、抱え続ける構造を示していた。90年代美術における「ケア」とは、癒しや救済を約束するものではなく、壊れないように保ち続けるための看護的態度に近い。ヨーゼフ・ボイスがかつて芸術に持ち込んだ治癒の理念は、この時代において一度通過され、縮減され、個別化された。

草間はこの変化に合わせて作風を変えたわけではない。彼女は一貫して同じオブセッションを反復してきた。ただ、90年代の感受性は、それを病理や逸脱としてではなく、生存の形式として読むことができる地点に到達していたのである。

出典:Artpedia/草間彌生
出典:Artpedia/草間彌生

後期のポップ ― 治癒ではなく管理としての明るさ

90年代後半以降、草間の作品は巨大なパンプキンや鮮烈な色彩の大画面絵画、観客を包み込むインスタレーションへと展開していく。一見すると、かつての闇や恐怖を乗り越え、ポップに突き抜けたかのように映る。しかしこの変化をセラピー的な回復や克服として理解するのは危険である。

後期作品においても、強迫的反復や自我消失への不安は消えていない。変わったのは、それらを噴出させる方法である。巨大化し、単純化し、祝祭的な色彩をまとうことで、オブセッションは破綻しない形式へと管理されるようになった。成功や制度的承認は、新たな創作衝動の源泉というより、内部圧力を直接爆発させずに済む緩衝材として作用した。

この明るさは幸福の表象ではない。恐怖と共存するために獲得された、制御された明るさである。無限網が内向きで消耗的だったとすれば、後期のポップは外向きで拡張的だが、構造自体は同型であり続けている。

出典:Artpedia/草間彌生

文学としての無限網 ― 草間彌生の小説が示すもう一つのオブセッション

草間彌生の創作を視覚芸術だけで捉えると、どうしても「後期ポップへの転換」という物語に引き寄せられてしまう。しかし彼女のキャリアを本質的に支えているもう一つの柱が、早い段階から書き続けられてきた小説や散文である。草間にとって文学は副次的な活動ではなく、絵画や彫刻と同じ構造をもつ別の出口だった。

初期から晩年に至るまでの草間の小説は、物語性や心理描写の精緻さを目的としていない。そこにあるのは、反復される語彙、過剰な身体感覚、性と恐怖が混線したイメージ、そして主体が崩れていく感覚である。これは無限網や水玉が視覚的に行っている操作を、言語のレベルで反復しているにすぎない。小説は世界を説明する装置ではなく、世界が侵入してくるのを遅らせるための壁として機能している。

代表作とされる『マンハッタン自殺未遂常習犯』や『クリストファー男娼窟』においても、救済や成長の物語は提示されない。欲望は充足されず、恐怖は解消されず、語りは循環し続ける。ここには治癒の約束はなく、あるのは生存の記録だけである。この点で草間の文学は、90年代以降に評価されることになるトラウマや記憶の美術と、すでに同じ地平に立っていたと言える。

この文学的実践を踏まえると、後期の巨大なポップ作品も別の相貌を帯びて見えてくる。視覚的には祝祭的で開かれている作品群の背後には、いまなお言語化され続ける強迫と恐怖が存在している。明るさは闇を消した結果ではなく、闇を保持したまま社会的空間へ提出するための形式なのである。

カツカレーカルチャリズム的成功 ― 混ざらない完成形

草間彌生のキャリア全体をカツカレーカルチャリズムの視点から読むと、その特異性がより鮮明になる。異質な要素が融合するのではなく、溶け合わないまま並置されることで強度を増すというこの枠組みにおいて、草間はきわめて純度の高い成功例である。病理的オブセッション、洗練された美術制度、観光的ポップさ、そして私小説的な言語世界は、最後まで混ざり合わず、同じ皿の上に置かれている。

初期の草間は、生煮えのカツがそのままカレーの上に載せられた状態だった。制度はそれを消化しきれず、強烈な異物感だけが残った。90年代以降、制度の側が成熟し、カレーは誰でも食べられるものになったが、カツは薄まるどころか巨大化した。後期のパンプキンや大画面絵画は、もっとも成功した別皿のカツであり、親しみやすさと不穏さを同時に保持している。 草間が達成したのは治癒ではない。異物を異物のまま、安定して提供し続けられる運用の獲得である。文学と視覚芸術の双方において、彼女は一貫して同じオブセッションを反復してきた。その反復が制度と結びついたとき、草間彌生は「成功した」のではなく、混ざらない完成形として世界に定着したのである。

出典:Artpedia/草間彌生

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