ナンシー・スペロ ― 生々しさのスパイスが循環するカツカレー的絵画
― ルイーズ・ブルジョア、塩田千春へと連なる身体と反復の系譜

ナンシー・スペロの作品に向き合うとき、鑑賞者はまずその生々しい線と象徴、そして壁面を横断するように連ねられた紙のドローイングに圧倒される。しかし、その圧倒は単なる威圧ではなく、次第に身体的なリズムとして感知されるものへと変わっていく。戦争、国家暴力、女性の抑圧といった重い主題が画面を支配する一方で、そこには反復、切り貼り、線の揺れが生む過剰な運動感があり、観る者は思考よりも先に身体で作品を「受け止めてしまう」。この感覚は、異質な要素が同一の皿に盛られ、重さと刺激が同時に押し寄せてくるカツカレー的体験に極めて近い。
スペロの絵画は、厳粛で政治的であると同時に、どこか感覚を挑発する余剰を孕んでいる。彼女の作品が放つ「生々しさ」は、倫理的な正しさや告発性だけに還元されない。むしろそれは、味覚を刺激するスパイスのように、鑑賞者の内部に長く残留する。スペロは、悲劇を語るのではなく、悲劇が反復され続ける構造そのものを形式化することで、見る者をその循環に巻き込むのである。

1926年生まれのスペロは、戦後アメリカ美術の中心にありながら、抽象表現主義の英雄的身振りから距離を取った作家だった。男性的主体性を誇示する巨大なキャンバスではなく、彼女が選んだのは、脆弱で、連結可能な紙というメディウムである。とりわけ1960年代後半からの《戦争シリーズ》において、ベトナム戦争の暴力は、英雄的な物語ではなく、歪み、裂け、断片化した身体として表象された。この選択は、当時の美術制度においてほとんど顧みられなかったが、結果的にスペロは、後のフェミニズム美術やポリティカル・アートにおける重要な先駆的役割を果たすことになる。
スペロのドローイングが特異なのは、女性の身体や戦争の暴力を描きながらも、決して単一のイメージに回収されない点にある。彼女は古代神話や写本、異文化の図像を引用し、それらを反復的に配置することで、意味を固定せず、リズムとして持続させる。紙を横に連ねていくその構成は、視覚的な行進であり、儀礼であり、呪文のようでもある。痛みや怒りは、叫びとしてではなく、繰り返される運動として画面に沈殿する。この「過剰だが冗長ではない」構造こそが、スペロの作品に独特の軽やかさを与えている。

ここで想起されるのが、ルイーズ・ブルジョアの存在である。ブルジョアもまた、トラウマや恐怖、母性といった私的で重い主題を、直接的な告白ではなく、反復される造形構造へと変換した作家だった。蜘蛛、檻、螺旋といったモチーフは、彼女自身の内的記憶に根差しながらも、見る者を空間的・身体的に巻き込む装置として機能する。スペロとブルジョアに共通しているのは、痛みを語るのではなく、痛みが持続する形式を作るという態度である。個人的な感情は、構造へと翻訳されることで、鑑賞者自身の身体感覚と共鳴する。

この系譜は、さらに現代へと引き継がれる。塩田千春のインスタレーションにおいて、糸は身体の不在や記憶の痕跡を可視化する媒体として空間を占拠する。鑑賞者は作品の前に立つのではなく、その内部を歩き、通過する存在となる。ここで起きているのは、スペロの連作ドローイングと極めて近い体験である。視線は横へと移動し、身体は時間をかけて作品と関わる。イメージは完結せず、連鎖としてしか成立しない。紙と糸、平面と立体という違いを超えて、三者は身体の痕跡を反復によって空間化するという同一の方法論を共有している。

さらに重要なのは、スペロ、ブルジョア、塩田の三者が、いずれも重い主題を扱いながら、素材や形式を極限まで削ぎ落としている点である。スペロは線と紙へ、ブルジョアは単純化された形態へ、塩田は糸へと還元する。これは感情を抑圧するためのミニマリズムではない。むしろ、過剰な感情を持続させるための節制である。カツカレーカルチャリズム的に言えば、具材を増やすのではなく、スパイスを凝縮することで、味の濃度を最大化する行為に近い。
この意味で、スペロの作品は単なるフェミニズム美術や反戦美術の枠を超えている。彼女が1970年代にA.I.R.ギャラリーの設立に関わり、制度そのものを変えようとした実践は、後続世代―キキ・スミス、モナ・ハトゥム、ドリス・サルセドといった作家たち―にとっても重要な参照点となった。しかし、スペロの最大の遺産は、制度批判以上に、痛みを「体験可能な濃度」へと変換する形式的知性にある。
スペロのカツカレー的魅力は、形式と主題の緊張関係にこそ宿る。テーマは重く、社会的で、否応なく歴史の暴力を想起させる。しかし、その重さは反復と連作という形式によって中和され、同時に増幅される。濃厚なカレーの中に、衣の食感を残したカツが置かれるように、痛みは作品の中で刺激となり、鑑賞者の感覚を覚醒させる。重さは排除されるのではなく、味として引き受けられる。

結論として、ナンシー・スペロは徹底してシリアスな作家である。しかしそのシリアスさは、カツカレーカルチャリズム的視点から見れば、むしろ「濃さ」として肯定されるべきものだろう。ルイーズ・ブルジョアや塩田千春へと連なる系譜の中で、スペロの作品は、悲しみと怒り、形式と余白、身体と反復が織りなす複雑な味わいを提示し続けている。それは重苦しさではなく、感覚を研ぎ澄ますスパイスとして、現代においてもなお強い効力を放っているのである。
ただし、身体や痛みを扱う同時代以降の表現を視野に入れるならば、スペロの方法論は、しばしば比較される別の実践との「距離」によって、さらに明確になる。
身体を直接差し出す者たち ― ナン・ゴールディン、マリーナ・アブラモヴィッチとの緊張関係
ここで一つ留保すべきなのは、ナンシー・スペロの表現が、同じく身体や痛みを扱う作家でありながら、ナン・ゴールディンやマリーナ・アブラモヴィッチとは異なる位相に立っているという点である。むしろ彼女たちは、スペロが回避し続けた地点を、あえて正面から引き受けた作家として理解されるべきだろう。
ナン・ゴールディンの写真は、私的な関係性、性愛、依存、暴力といった体験を、ほとんど加工されない生のイメージとして提示する。そこでは「私」が前景化され、傷ついた身体や崩壊寸前の関係性が、そのまま世界に晒される。アブラモヴィッチにおいても同様に、身体は象徴ではなく、実際に傷つき、消耗し、極限に晒される現実の場として差し出される。彼女たちの表現は、痛みを媒介せず、直接的に引き渡す点において、強烈な倫理性と同時に危うさを孕んでいる。

これに対し、スペロは一貫して、身体を「直接差し出す」ことを拒んだ作家であった。彼女の女性像は、具体的な誰かの身体である以前に、歴史的に反復されてきた暴力の痕跡としての身体である。線は生々しいが、個人名は消去され、イメージは象徴へと引き上げられる。この距離の取り方こそが、スペロの方法論の核心であり、ブルジョアや塩田千春へと連なる系譜を成立させている。
言い換えれば、ゴールディンやアブラモヴィッチが「身体そのものを鍋に放り込む」タイプのカツカレーだとすれば、スペロは身体を刻み、反復し、リズムとして煮込むタイプの料理である。どちらが過激かという問題ではない。重要なのは、痛みをどう扱うか、どの段階で形式へと変換するか、という選択の違いだ。

この違いは、鑑賞体験にもはっきりと現れる。ゴールディンやアブラモヴィッチの作品は、観る者に即時的な衝撃と倫理的判断を迫る。一方、スペロの作品は、即座に答えを要求しない。紙の連なりを辿り、象徴の反復に身を委ねるうちに、観る者自身の身体感覚の中で、遅れて痛みが立ち上がってくる。この時間差と沈殿こそが、スペロの表現の強度であり、ブルジョアや塩田千春と共有される感覚でもある。 したがって、ナン・ゴールディンやマリーナ・アブラモヴィッチは、スペロと「似ている作家」として並べるよりも、同じ問題圏を、異なる温度と手触りで扱った対照項として置くことで、かえってスペロの独自性を際立たせる存在となる。直接性と媒介性、告白と儀礼、即時性と反復。これらの差異が浮かび上がることで、スペロのカツカレー的絵画が持つ「濃さ」の質が、より明確になるのである。



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