ロバート・ラウシェンバーグ ― フラットベッドと日常の全部盛り
垂直から水平へ――フラットベッドという転位

ロバート・ラウシェンバーグの作品を前にすると、まず感じられるのは、秩序だった構図や明確な中心を欠いた、雑多で落ち着きのない印象である。新聞、写真、布片、ペイントの残滓、時に剥製や家具の断片までもが、キャンバス上あるいは作品空間に並置され、互いに説明し合うことなく共存している。この雑然性は、単なる即興や無秩序の結果ではない。それは、絵画という形式が長らく前提としてきた「垂直性」――すなわち、鑑賞者の前に立ち上がり、視線を導き、意味を統合する装置としての性格――を、意図的に解除する行為から生まれている。
批評家レオ・スタインバーグが提示した「フラットベッド・ピクチャー・プレーン」という概念は、この転位を理解するうえで決定的である。ラウシェンバーグにおいてキャンバスは、もはや窓でも鏡でもなく、机、床、掲示板、作業台のような水平な支持体へと変質する。そこでは、イメージは意味の序列に従って配置されるのではなく、ただ「置かれる」。この水平化によって、絵画と日常、芸術と非芸術の境界は曖昧になり、世界の断片がそのまま画面へと滑り込む。
この状態は、カツカレーの皿を想像すると理解しやすい。トンカツ、カレー、ライスはそれぞれ異なる役割と主張を持ちながらも、皿というフラットな場に等価に置かれる。ラウシェンバーグのフラットベッドも同様に、素材やイメージの価値を事前に決定せず、すべてを同一平面上に差し出す。その結果、鑑賞者はどこから見てもよく、何を重要と感じてもよいという、開かれた状況に置かれるのである。

デュシャン以後の炭――制度とともにあるカウンター
ラウシェンバーグの実践には、しばしばマルセル・デュシャンの影が指摘される。日用品の導入、作者性の相対化、芸術制度への距離感。そのいずれにおいても、確かにデュシャン的な臭いは濃厚である。しかし決定的な違いは、ラウシェンバーグが「デュシャンがすでに歴史化された後」の世界で制作していた点にある。反芸術そのものが前衛の語彙となり、制度の内部に回収されつつあった時代において、彼は距離を取るのではなく、あえてその内部に留まり続けた。
フォーマリズムが完成し、ミニマリズムが到来する直前の1950年代後半、近代美術の進歩史は一種の行き詰まりを見せていた。抽象表現主義の英雄的身振りは神話化し、形式の純化は自己閉塞に向かっていた。その観念的焼野原において、ラウシェンバーグは新しい炎を掲げたのではなく、まだ熱を失っていなかった炭に息を吹きかけた存在だと言える。
重要なのは、その炭を可視化し、意味のあるものとして引き上げた存在がいたことである。スタインバーグの批評や、MoMAを中心とする美術館制度は、ラウシェンバーグの雑多さを失敗や未整理として退けるのではなく、戦後の情報環境を引き受ける新しい認識装置として位置づけた。彼は制度へのカウンターでありながら、同時に制度が次へ進むための緩衝材としても機能したのである。
瓦礫と過剰――ヨーロッパ・アッサンブラージュとの距離
ラウシェンバーグのコンバインは、しばしばヨーロッパのアッサンブラージュと並べて語られる。確かに、廃材や日用品を用い、絵画と彫刻の境界を解体する点では共通している。しかし両者は、同じ瓦礫原に立ちながら、まったく異なる方向を向いている。
戦後ヨーロッパのアッサンブラージュは、破壊された都市と倫理的破綻の記憶を背負っていた。そこでは集積や圧縮の行為が、文明への告発や葬送の身振りとして機能する。一方、ラウシェンバーグが直面していたのは、欠如ではなく過剰である。戦後繁栄のアメリカにおいて、イメージと物質は絶えず生産され、消費され、ゴミとなっていく。彼の作品に漂うのは哀悼ではなく、意味が多すぎて処理不能になった現在の気配である。
この違いは、批評のベクトルの差としても表れる。ヨーロッパのアッサンブラージュが歴史や倫理へと垂直に掘り下げるのに対し、ラウシェンバーグは現在の環境へと水平に拡散する。裁かず、象徴化せず、ただ置くという態度は、告発の不在ゆえに軽く見えることもあるが、そこには情報過多の世界と共存するための静かな知恵が潜んでいる。

物質のゴミから情報のゴミへ――大きな物語の後で
ラウシェンバーグの時代、コンバインに取り込まれたのは、まだ物質としてのゴミだった。しかし現代においてゴミは、画像、言葉、意見、感情といった情報へと姿を変えている。タイムラインに流れ込む断片の中から、どれが価値を持つのかを個別に判断しなければならない状況は、彼の作品が先取りしていた世界でもある。
この変化は、「大きな物語」が完全に消滅したことを意味するわけではない。進歩史や普遍的主体といった神話はもはや無邪気には信じられないが、その構造自体は社会の中で依然として機能している。ただし、それらは統合的な意味を与える力を失い、背景ノイズのように存在している。ラウシェンバーグは、その崩壊の途中段階に立ち、意味を再統合することも、虚無へ退くこともせず、世界の雑音とともに制作を続けた。
さらに、写真、パフォーマンス、デザイン、インスタレーションを横断する彼の実践や、〈オーバーシーズ・カルチャー・インターチェンジ〉に見られる協働的制作は、グローバル時代の文化実践を先取りしている。それは支配でも翻訳でもなく、混成と共創の記録であり、異なる素材や文化を一皿に盛りつけるカツカレー的発想の延長線上にある。
ラウシェンバーグの作品がもたらす「全部盛り」の感覚は、過剰と混沌を否定せず、偶然と意図を同時に引き受けるところにある。フラットベッドという水平な場において、すべての断片は一度等価に置かれ、鑑賞者の経験の中で新しい関係を結ぶ。その雑多さは、現代のイメージの洪水を生き抜くための一つのレシピであり、意味が保証されない世界においても、創造が続いてしまうという事実を静かに示している。



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