ホルスト・ヤンセン ― 情報過多の時代にぽっかり開く“落とし穴”としての絵画
20世紀ドイツに生きたホルスト・ヤンセンの作品を前にすると、現代の美術鑑賞のリズムが一瞬止まる。SNSで流れ続ける画像の洪水、目まぐるしいメディア刺激、それらとは反対方向へと観る者を引き込むような、局所的な沈黙の塊が絵の中にある。まるで、過剰な情報の海の只中に、ぽっ、と“落とし穴”だけが穿たれているかのようだ。その穴に目が吸い込まれると、下方には静まり返った空間が広がり、一人の人間がごにょごにょと呟きながら、やがて静かに朽ちていくような気配が漂う。
この奇妙な感覚は、単なる印象ではなく、ヤンセンの線が本質的に孕んでいる心理作用に由来している。彼の線は、情緒の震え、呼吸の揺らぎ、神経の軋みといった人間の“内側の動き”をそのまま描き写すような強度を持つ。整えられた美ではなく、むき出しの神経片のような線の連続。そのため、観る側の身体も無意識にその震えをトレースしてしまい、心の奥にほんのわずかな痛みや疲労を生み出すことがある。ヤンセンの線が“精神のノイズ”を含んでいるからこそ、そのノイズは鑑賞者の内部に共振し、時にビターな感情さえ呼び起こす。

さらに、彼の自画像は単なる自己表現ではなく、自己の解体記録に近い。老い、倦怠、病い、不安、自意識、孤独。これらが過剰なドラマ性を伴わず、ただ淡々と紙面に沈殿している。ヤンセンは自分自身を素材にしながら、そこに宿る影(シャドウ)をトレースし続けたと言ってよい。ユング心理学的に言えば、彼の作品は「人間の影の層」を直接可視化している。だから、それを観る人の心にも、自身の影が静かに呼び起こされる。絵が美しいから刺さるのではなく、絵の奥に潜む静かな闇が心の奥の沈黙に触れるから刺さるのだ。
この刺さり方は、通常の“好き嫌い”の領域とは異なる。ヤンセンの絵は、外向きの魅力やわかりやすい美しさをほとんど備えていない。SNS的なインパクトにも乏しい。しかし、そうであるにもかかわらず、ある種の感受性を持つ人にとっては、強烈に響いてしまう。大多数の人にはただの空白としか見えない穴が、ある人にとっては底なしの井戸になる。視覚的に華やかではないぶん、感情の奥深くに直接触れるような“静かな衝撃”が宿る。
なぜそこまで強く刺さるのか。その理由のひとつは、ヤンセン作品が身体感覚に作用するからだ。胸の奥がざわつく、呼吸が浅くなる、視線が吸い寄せられる。整った構図や完成度とは異なる場所で、絵が心の奥に触れてしまう。そしてもうひとつ、ヤンセン作品は「刺さる側の人間」が抱えている影や記憶を呼び起こす力を持つ。過去の傷や喪失、言葉にならず沈んでいた感情、説明のつかない孤独。そうしたものが、作品の静けさに触れた瞬間にふっと立ち上がる。刺さるというより、作品と心の穴が一瞬重なってしまうのだ。

作品の内部には、常に“朽ちていく予兆”も漂う。細密な線はどこか磨耗し、モチーフは崩れかけ、余白には冷たい風のようなひびが走る。そこには、自己が持続せず、ゆっくりとすり減っていくという世界観が沈殿している。その静かな朽ち方に気づいてしまうと、観る者の心にも同じ速度の時間が流れ始める。外界の騒音が遠ざかり、ただ自分自身の呼吸と沈黙だけが残る。これが、現代の情報過多環境においてヤンセン作品がもつ異様な“穴”としての存在感である。
しかし、この“穴”は決して絶望だけではない。むしろ、現代の忙しないリズムから逸脱し、一人の人間の内面に沈殿した時間をそっと覗き込める場所でもある。そこには、苦味と誠実さがある。華やかな希望の代わりに、時間の重みを含んだ静かな真実がある。大声をあげない孤独なユーモアもある。

そしてここに、少しだけ「カツカレーカルチャリズム的トッピング」を振りかけるなら、ヤンセン作品とは、現代の文化的ごった煮の中に不意に現れる“焦げの部分”のようなものだと言える。カツカレーの皿の端にある、誰も気に留めないような焦げ――しかし、その焦げには、香ばしさとも苦さとも言えない、料理全体の輪郭を決定づける不思議な風味が潜んでいる。ヤンセンは、時代のメインストリームの“ルー”でも“カツ”でもない。むしろ、皿の端の焦げや沈黙といった、見過ごされがちな部分を極端に濃縮した存在だ。そこだけ味が異様に濃く、深く、苦い。だが、その苦味こそが文化全体の味を引き締める。
ヤンセンは、万人に広がる光ではない。だが、ある心の深さを持つ人にとっては、ほとんど暴力的に刺さる光でもある。現代の喧騒の中にぽっかりと空いたその落とし穴に落ちたとき、人は、静かな苦味の中に奇妙な安堵さえ見つけてしまうのだ。



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