カツカレーカルチャリズム画家列伝32 ~ガストン 編

アート

フィリップ・ガストン ― 叙情と暴力、カツカレー的寓話

フィリップ・ガストンの絵画を前にすると、まず目に飛び込むのは、荒々しい筆致と寓話的なモチーフの混在だ。初期の抽象表現主義的な作品から、後期の象徴性に富んだ人間像や道具類、レンガや煙をまとった街路の断片まで、ガストンの画面は常に複数の感情と物語で満ちている。線と形、色彩と質感が絡み合い、暴力的でありながら叙情的、ユーモラスでありながら悲劇的という矛盾を内包している。その一つひとつの要素は、まるでカレーとトンカツとライス、福神漬けが一皿で異なる味を主張するように、独立した存在感を持ち、互いに混ざりきらずに接触し続ける。この「混ざりきらない共存」の構造こそ、ガストンを読み解く重要な鍵となる。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン

ガストンは長く抽象表現主義の第一線に立ち、画面の重さ、筆触の震え、量塊のリズムといった“抽象の語法”を磨きあげた。しかし1960年代後半、アメリカ社会は公民権運動、ベトナム戦争、人種差別や暴力の激化といった深刻な問題を抱え、抽象の筆触だけでは現実の裂け目に触れられないと感じる画家も多く現れた。ガストンはその最も鋭い例といえる。彼は若い頃、社会派壁画の現場で活動し、「絵画は世界の現実に応答せねばならない」という倫理観を早くから抱え込んでいた。抽象表現主義の純粋性は彼の感性としばしば衝突し、形式が洗練されればされるほど、政治的・倫理的な問いかけが画面から遠ざかっていくように思えたのだ。

その葛藤の最終的な爆発が、1968年以降の具象への劇的な転回である。そこに登場したのは、あの太い輪郭線で囲われた、歪んだ手足、ぼってりした靴、煙の立つ街路、散らかった家具、そして三角頭巾の人物たちだった。これらは写実ではなく、どこか漫画的で、厚塗りで影がつくのに平面的でもあるという、奇妙な造形言語を持っている。それは偶然ではなく、ガストンの“造形の政治性”に由来する。抽象の量塊感や重さは保持しつつ、コミックの輪郭線のような強いラインを導入することで、高尚な抽象の世界から意図的に逸脱し、「下品さ」や「稚拙さ」を緊張の武器として使う。形式的洗練を拒否することは、当時の画壇の規範に対する抵抗だったのだ。彼の絵が妙に“ダサく”見える瞬間があるのは、その政治的な造形戦略ゆえである。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン

後期の絵画における人間像は、まさにカツカレー的な多層性を獲得している。手足は太く歪み、顔は極度に簡略化されて単純な丸や点に収束するが、視線や身体の傾きは驚くほど情念に満ちている。背景にはレンガ、煙、看板、家具の断片など、日常と暴力を同時に想起させる物体が散乱し、それぞれが異なる時間の層を運び込んでくる。こうした断片が画面上で触れ合い、互いの意味を変形しあう様子は、異文化的な具材を一皿に盛るカツカレーを思わせる。辛み、甘み、酸味、旨味がそれぞれ主張しつつ、混ぜれば混ぜるほど新たな味が立ち上がる。ガストンは画面上で“混ぜること”を積極的に行い、寓話、暴力、ユーモア、悲哀といった異質な要素をわざと共存させることで、見る者の感覚の均衡を揺さぶる。

その中でもとりわけ強烈なのが、三角頭巾の人物像だ。形としてはKKK(クー・クラックス・クラン)を連想させ、人種差別や集団暴力の象徴として機能する。しかしガストンの絵画で重要なのは、彼がそれを「他者」ではなく「自分」として描いている点である。キャンバスの中で頭巾の人物はしばしば絵筆を握り、タバコを吸い、車を運転し、あるいはただ座って煙を眺める。つまり、そこには「暴力のシステムに加担してしまう自分」への凝視があるのだ。ガストンは晩年、「人はいつでも加害者になり得る」と語り、自身の記憶や罪責感、社会への苛立ちを頭巾の人物に託した。この内省的な寓話性が、彼の具象作品の核心をなす。KKKの象徴は、暴力の歴史を示すと同時に、「正しさとは何か」「差別や支配の構造に自分はどう関わっているのか」という倫理的問いを観者に突きつける装置となるのだ。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン

色彩表現も、この倫理的緊張と密接に絡んでいる。初期の暗く沈んだトーンから、後期の赤・青・黄がぶつかりあう強烈なパレットまで、色彩は「感情の音量」として画面全体を震わせる。厚塗り、スクレイピング、塗り直しという執拗な手の痕跡は、情動の沈殿や爆発を可視化し、画面の奥から複数の声が聞こえるような多層性を生み出す。これは、カツカレーのルーがトンカツやライスを包み込みつつ、それぞれの味を際立たせる構造に似ている。ガストンの画面では暴力、哀しみ、ユーモア、アイロニーといった感情の層が互いに混ざりきらず、しかし同時に全体として一つの“大きな味わい”を作っているのだ。彼の色彩は単なる視覚的処理ではなく、倫理的感覚を揺るがす媒介として働く。

ガストンの具象への転回はまた、彼自身の個人的な記憶とも深く結びついている。幼少期の家庭の不和、父の自殺、ユダヤ系移民としての不安定な境遇など、影のようにつきまとう経験は、抽象の中に筆触として潜みつつ、60年代の社会状況と呼応するかのように“形”を持って再浮上した。だからこそ、後期作品の靴、手袋、時計、吸い殻、レンガは写実というより、記憶が変形した夢の断片のように現れる。ガストンは自分の外側の世界と内側の世界が同時に噴出する場として、具象を再獲得したのである。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン

こうして見ると、ガストンの具象への転回は「退行」ではなく「深化」と呼ぶべきものである。純粋抽象の美学が到達できない“倫理の領域”へ踏み込み、日常的で個人的で政治的で寓話的なイメージを一枚のキャンバスに共存させるための、大胆なジャンプだったのだ。抽象で得た造形の重量と、具象で得た物語の深度が、彼の後期作品では一つの皿の上で奇跡的に共存している。まさに「全部盛り」のカツカレーである。

そして現代において、ガストンの絵画はブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動の文脈と重なり、今日的な倫理や正義を考えるための強力な素材となっている。BLMは政治運動であると同時に、ケンドリック・ラマーをはじめとする音楽や映像作品を巻き込み、文化的議論を広範に喚起した。ガストンのKKKフードや暴力の象徴は、単なる歴史の再現ではなく、この現代の対話を先取りするかのような構造を備えている。彼の絵は、観る者に「自分もまた暴力や差別のシステムの一部なのではないか?」という、不快でしかし逃れられない問いを突きつける。ガストンが画面に仕込んだ寓話的構造は、過去と現在、個人と社会をつなぎながら、差別・暴力の問題を“遠い歴史”ではなく“現在の自己”へと引き寄せる。

フィリップ・ガストンをカツカレーカルチャリズム的に読み解くなら、彼は「寓話と暴力、自己と他者、ユーモアと悲哀の全部盛り」を画面に実現した作家である。抽象表現における自己探求の奔放さと、具象表現における倫理的思索の鋭さを同時に抱え込み、互いを衝突させながら響き合わせる。その過剰と調和の同居は、視覚的・感情的に一度に複数の刺激を観者に与え、満腹感と困惑を同時に生む。ガストンの絵画は、まさに「一皿で異なる味を楽しめるカツカレー」の芸術版であり、混成の美学を通じて、自己、社会、倫理という多層的な問いを観る者に差し出す装置なのである。そしてその問いは、今日の文化的議論と呼応しながら、過去と現在、個人的感情と社会的構造を横断し続ける。ガストンの寓話的世界は、私たちが何を見、何を見ないようにしているのかを暴露し、芸術と倫理のあいだにある複雑なカツカレー的領域へと導くのだ。

出典:Artpedia/フィリップ・ガストン

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