カツカレーカルチャリズム画家列伝26 ~デュビュッフェ 編

アート

ジャン・デュビュッフェ ― 粗野の美学とカレー皿の裏側

ジャン・デュビュッフェの絵に初めて向き合うと、多くの人がまず戸惑うだろう。整った構図も、計算された色彩も、アカデミックに磨かれた筆致も見当たらない。代わりにそこにあるのは、落書きのような線、土くれをこねたような材質感、あるいは子どもが夢中になって遊んだ痕跡がそのまま画面にこびりついたような、荒々しく不恰好な世界だ。それはまるで、誰かがカレーをかきこんだ直後の皿をひっくり返して「これが美だ」と差し出してくるような、妙な衝撃を帯びている。だが、この「皿の裏側」こそがデュビュッフェの狙いだった。美術が見せようとする整然とした表の側ではなく、むしろ隠され、顧みられない裏側の混沌にこそ美の根源が潜んでいるという、大胆な信念がここにある。

デュビュッフェは、美術のアカデミックな規範を徹底的に拒否した。整った構図、均整の取れた色彩、技巧によって制御された筆致――こうした美術教育が教える「正しさ」を彼は疑った。それらはフランス料理のナイフとフォークのように、文化的な作法として整いすぎている。デュビュッフェにとって、それはあまりに洗練され、加工され、制度化された味である。彼が目指したのは、むしろ具材が混ざりすぎて正体を失い、ざらざらとした歯触りと匂いの濃度が一気に押し寄せてくる「全部盛り」のカツカレーのような美だった。上品な盛りつけの裏側――混成と粗野と余剰の世界こそが、生の美を宿す。これがデュビュッフェの美学の出発点である。

その象徴が「アール・ブリュット(Art Brut、生の芸術)」という概念だ。精神病院の患者、子ども、文字の読めない人、社会制度の外側に置かれた人々の造形表現に、彼は徹底的な価値を見出した。教育も伝統も、美術史の知識も不要。むしろそうしたものが介入しないからこそ、表現は「純粋」になり得るという考え方である。これは、一般市場に出ない端材や余った具材をカレーに放り込み、「これこそ滋味だ」と宣言するようなものだ。つまり、美術の主流が見なかったもの、価値とみなさなかったものを、価値の中心として持ち上げるという反転の美学である。

出典:Artpedia/ジャン・デュビュッフェ「マダム・ムーシュ」

しかしここで重要なのは、この「純粋さ」が単なる自由奔放さや「好き勝手にやれ」という表現主義的な態度とは違うという点だ。デュビュッフェの言う純粋性とは、あくまで制度の外側にあることを意味している。技法や美術史を知らないこと、評価や市場を気にせず制作すること、社会的規範と距離があること――こうした「文化の外部性」こそが、彼にとって純粋な表現の条件だった。しかし同時に、この外部性は理念的なユートピアであり、完全には実現不可能な夢でもあった。

実際、アール・ブリュットの作り手たちの多くは、精神病院や施設、福祉的な環境に身を置いており、それらの制度なしには作品の成立や保存は難しい。またデュビュッフェ自身が作品を収集し、体系化し、美術館に寄贈したことで、アール・ブリュットは結局、制度的な美術の枠組みの中に位置づくことになった。つまり、外部を理想化しながらも、その外部は制度に依存している。このねじれは、デュビュッフェの思想に内在する避けがたい矛盾である。

しかし、この矛盾こそが20世紀美術の前進力を生んだ。デュビュッフェの「表現衝動の純粋さ」への憧れは、後にクレメント・グリーンバーグが唱えた「形式の純粋性」とどこか響き合う。もちろん両者の方向性は異なるが、いずれも「純粋なもの」への回帰を志向した点で共通している。そしてどちらも、その純粋性が現実には制度的であり、観念的であり、到達不可能な理想であることを抱え込んでいる。つまり、純粋性とは実体ではなく、芸術を動かすためのフィクションなのである。

出典:Artpedia/ジャン・デュビュッフェ「アパートメント・ハウス」

デュビュッフェが泥や砂、アスファルトを混ぜ込んだ絵具を使い、ツルツルのキャンバスではなくざらついた表面を選んだのも、このフィクションを強く意識してのことだ。彼は視覚の洗練された喜びを疑い、触覚的で不均質な表面を絵画の主役として押し出すことで、美術が持つ「お行儀の良さ」を破壊しようとした。きれいに盛り付けられた料理を否定し、かき混ぜて食べるカツカレーの余剰性を称揚するように、デュビュッフェは「整った美」そのものを価値の中心から引きずり下ろしたのである。

こうした姿勢は、表現の民主化という形でも今日的意義を持っている。デュビュッフェの視点は、専門家でない人々の表現に宿る価値を認める感性へと通じ、素材や方法を自由に扱う権利を広げた。それは情操教育やアートセラピーの領域にも接続し、落書きのような線や偶発的な手の動きが、表現者の自己肯定感を育む装置としても機能する。デュビュッフェが遠くから照らし出した「非専門性の美」は、今日では教育・福祉・心理の現場で実際的な力を持ちはじめている。

つまり、デュビュッフェが見せた「カレー皿の裏側」は、単なる粗野さや混沌の礼賛ではない。美術が長い時間をかけて隠してきた「裏側」にこそ、豊かさと真理が潜んでいるという信念の表れである。彼は美術史の正統なフルコースの前に、カツカレーをドンと置き、「この混沌こそが味の核心なのだ」と告げた料理人だった。そこには制度と外部、純粋性と矛盾、ユートピアと現実の境界を行き来する、美術特有のねじれた生命力が宿っている。

観る者は戸惑いながらも、その画面の奥底に、野性的でありながらどこか包容力のある喜びを感じ取る。整った美が与えてくれる安心とは異なる、混沌から湧き上がる根源的活力がそこにはある。デュビュッフェの絵は今なお、自由で垣根のない表現、自己肯定の喜び、そして「外部」への憧れという今日性を放ち続けている。こうして彼の作品は、文化の表側に対する裏側の反逆として、そして美の概念そのものを揺さぶる問いとして、現代においても鮮やかな存在感を保ち続けているのである。

出典:Artpedia/ジャン・デュビュッフェ「人物たちの塔」

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