
宙づりの音楽としての『Afro-Cuban』
ケニー・ドーハムのアルバム『Afro-Cuban』は、そのタイトルが示すほど明快な音楽ではない。むしろ聴き手に残るのは、「これはジャズなのか、キューバ音楽なのか」という判断不能な感触であり、その宙ぶらりんな位置こそが本作の核心である。アフロ・キューバンという言葉から想起されがちな、強い身体性や祝祭的な高揚は、ここでは前面に出てこない。リズムは華やかで、パーカッションは多層的に鳴っているにもかかわらず、自然に身体が動き出す感じは希薄である。この違和感は、演奏の完成度や力量の問題ではなく、むしろ意図的な距離の取り方から生じている。
キューバ音楽が本来持つダンス性は、反復と集団的な同調によって身体を巻き込む構造に支えられている。しかし『Afro-Cuban』では、即興ソロが音楽の推進力を担い、語りとしてのジャズが常に前景化される。その結果、リズムは床や土台として身体を支えるものではなく、背景の装飾、あるいは構造を可視化するための層として機能する。聴き手は腰や足でリズムを受け止める前に、頭で拍の配置やズレを追うことになる。
同時にこの作品は、ハードバップとしても完全には収まらない。4ビートのスウィングは絶対的な支配力を持たず、拍の重心は常にわずかに横滑りしている。ジャズの内部文法に回収されきらない時間感覚が、音楽全体に薄い緊張を与えているのである。こうして『Afro-Cuban』は、ジャズでもなく、キューバ音楽でもない場所にとどまり続ける。その中途半端さは欠点ではなく、むしろ本作が成立するための条件なのだ。

内部構造とは別のモダン化
20世紀半ばのジャズは、しばしば内部構造の高度化によってモダン化していった音楽として語られる。ビバップ以降の流れは、和声の複雑化、テンポの高速化、即興語法の抽象化といった、同一言語をより洗練させる方向での進化だった。しかし『Afro-Cuban』が示しているのは、そうした内部的モダン化とは異なる、もう一つの道筋である。それはジャズの外部にある時間感覚やリズム構造を導入することで、内部の前提そのものをずらす試みだ。
この外部導入型のモダン化は、当時は必ずしも「前衛」とは認識されなかった。アフロ・キューバン的要素は、異国趣味やスパイスとして消費されがちで、構造的な革新として評価されにくかったからである。しかし現在の視点から振り返ると、拍の重心や時間の流れを変えることは、和声を複雑にするのと同等、あるいはそれ以上にラディカルな試みだったと読める。
この点で、マイルス・デイヴィスの『Sketches of Spain』との対比は示唆的である。マイルスの作品では、スペイン音楽は明確に素材として引用され、強い作家性と統制のもとで再構築される。そこには参照する側と参照される側の非対称性があり、異文化はマイルスの世界観に回収されていく。一方ドーハムは、アフロ・キューバンを素材化しない。旋律引用も記号的な演出も抑えられ、誰が誰を使っているのかが判然としない構造が保たれる。その結果、異文化は管理される対象ではなく、同席する存在として音楽の中に置かれる。
この態度は、倫理的な優劣というより、音楽の作られ方の差である。ドーハムは自らの作家性を過剰に前に出さず、統合しきらないことを選ぶ。そこにあるのは、外部を尊重するというより、自分自身を相対化する姿勢だと言えるだろう。

カツカレーカルチャリズムとしてのジャズ
この『Afro-Cuban』のあり方は、カツカレーカルチャリズムという視点から見ると非常にわかりやすい。カツカレーとは、異なる起源を持つ要素が一つの皿に並びながら、完全には混ざり合わない料理である。カレーはカレーの顔を保ち、とんかつはとんかつのまま存在する。かき混ぜることもできるが、かき混ぜなくても成立する。その並存状態そのものが、美味しさの核心となる。
『Afro-Cuban』も同様に、ジャズとアフロ・キューバンが同じ時間を共有しながら、互いを溶かし合わない。混ざりきらないからこそ、そこに余白が生まれ、聴き手は文化の距離や緊張を感じ取り続けることになる。ダンスに最適化されなかったことで、この音楽はリスニングに特化した魅力を獲得した。身体を即座に同期させる快楽ではなく、違和感を抱えたまま味わう満足感が残る。
この美味しさは、即効性のある映えとは異なる。説明しにくいが、なぜかまた聴きたくなる。食べ終えたあとに静かな満足が残るタイプの幸福である。多文化が衝突や融合ではなく、並置として存在すること。その状態自体を価値として差し出す点で、『Afro-Cuban』はカツカレーカルチャリズムのジャズ的実践と言えるだろう。
ケニー・ドーハムの『Afro-Cuban』は、歴史の中で大きな旗を掲げた作品ではない。しかし、内部構造の洗練とは別のかたちでモダン化を試み、文化の接触面をそのまま音として残した。その宙づりの状態は、グローバル化とポストジャンルを前提とする現在において、むしろ鮮やかに響いてくる。混ざらないこと、回収しないこと、その不完全さを美味しさとして引き受ける態度こそが、このアルバムの静かな強度なのである。



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