表面の幻影 ― グレン・ブラウンと溶解する絵画
厚塗りに見える平面
グレン・ブラウンの作品を前にすると、まず視線はその異様な筆致に絡め取られる。渦を巻く肉、溶解する顔貌、光を過剰に孕んだ皮膚。画面は一見、激しいインパストに覆われているように見える。しかし近づくと、そこには物理的な厚みがほとんど存在しないことに気づく。絵具は盛り上がっていない。表面は驚くほど平滑である。

この視覚的厚みと物質的平面性の乖離こそが、ブラウンの出発点である。彼は厚塗りを再現するのではなく、厚塗りの「イメージ」を描いている。そこにあるのは、触覚的絵画の再演であり、同時にその否定でもある。見る者は絵肌を想像しながら、実際には触れることのできない表面に直面する。絵画の身体性は提示されながら、奪われている。
この二重性は、彼を単なる技巧派から切り離す。技巧は確かに驚異的である。しかしその技巧は物質の祝祭ではなく、物質の幻影を作り出すための手段となっている。

画像から再び絵画へ
ブラウンの制作は、美術史の名画を直接写すことから始まらない。彼は印刷物や図版、既に複製されたイメージを参照する。たとえばレンブラントやフランク・アウアーバッハの作品、さらには幻想絵画やSF的イラストレーションなど、出発点は多層的である。しかしそれらは徹底的に変形され、拡大され、色彩を誇張され、ほとんど原形をとどめない。
重要なのは、彼が「世界」を描いていないという事実である。彼が描くのは、すでに画像化された絵画である。現実から絵画へという古典的回路ではなく、絵画から画像へ、そして再び絵画へという循環。この媒介の重なりが、彼のリアリティを決定する。
したがって、アプロプリエーションは彼にとって主題というより前提条件である。引用を明示するのではなく、引用を溶解させる。オリジナルの権威を誇示するのではなく、イメージの増殖過程そのものを物質化する。そのため彼の作品は、ぱっと見には「引用芸術」には見えない。むしろ過剰な描写力の展示のように見える。しかしその描写力は、現実の再現ではなく、イメージの再物質化に向けられている。

溶解する身体と90年代のリアル
ブラウンの人物像はしばしば溶け、歪み、渦巻く。皮膚は流動化し、目は肥大し、光は金属的に反射する。この視覚は、19世紀的バロックの延長にあると同時に、20世紀末の映像文化と深く共鳴している。
とりわけ想起されるのは、ターミネーター2: Judgment Dayにおける液体金属の身体である。固体が液体へと変容し、形態が不安定化するその映像体験は、CG黎明期の象徴だった。そこでは物質は滑らかで、過剰に光沢を帯び、どこか人工的だった。


ブラウンの絵画もまた、アナログでありながらCG的な質感を帯びる。光沢は誇張され、陰影は劇的で、表面は滑らかすぎる。この「強い表面」は、1990年代の視覚文化のリアリティと無縁ではない。彼の絵画は古典的でありながら、同時に未来的に見える。なぜならそこでは、肉体が霊的存在であると同時に、デジタル的流動体でもあるからだ。
しかし今日の視点から見ると、その劇的陰影や達者な描写は、ある種の時代感を伴う。強度を誇示する表面、技巧の明確な可視化。それは90年代的な「リアルの最大化」の時代に属している。

欲望と構造のあいだ
ブラウンの作品をめぐる議論はしばしばコンセプトに集中する。しかし画面に先立って感じられるのは、理論ではなく欲望である。もっと溶かしたい、もっと歪ませたい、もっと異様にしたいという視覚的衝動。彼は絵画を疑うのではなく、むしろ強く信じているように見える。
ただしその信仰は、無垢ではない。厚塗りを直接行うのではなく、厚塗りの幻影を描くという選択。実物を観察するのではなく、画像を媒介とする方法。この回路は極めて意識的である。欲望は存在するが、その実行は厳密に制御されている。
そのため彼の画面は、熱と冷却の二重構造をもつ。視覚は熱いが、方法は冷たい。情動は演出されるが、構造は計算されている。この二重性が、鑑賞者に「技巧に感心する」という感動をもたらす一方で、どこか距離を感じさせる要因でもある。

カツカレーカルチャリズムとの接続
ブラウンの位置を文化理論的に捉えるなら、それは異質な層の並置にある。西洋絵画史の重厚な伝統、アメリカSF的視覚文化、CG黎明期の人工的リアリティ。それらは完全に溶け合うことなく、しかし一皿の上に同居している。
ここで想起されるのが、カツカレーカルチャリズムという概念である。異なる文化的文脈が溶解せずに重なり合い、全体としては成立しながら、内部に異質性を保持する状態。ブラウンの作品はまさにその構造を体現する。レンブラント的光とSF的溶解は、融合ではなく並置として存在する。衣のサクサク感は消えず、しかしカレーの一部として機能する。
ただし彼の場合、その混線は高度に管理されている。偶発的な事故ではなく、設計された錯乱である。だからこそ、今日の視点からは少し閉じた強度にも見える。混線のエネルギーが、構造の内側に収まっているからである。
それでもなお、ブラウンの試みは重要である。彼は絵画を終わらせるのではなく、媒介された時代において再び成立させようとした。厚塗りを直接行うことができない時代に、厚塗りの幻影を描くという回路を発明した。その行為は、絵画史とポップカルチャー、物質と画像、熱と冷却を並置する実践であり、カツカレーカルチャリズム的世界観の一つの典型である。 ブラウンの作品は、見る者を技巧で圧倒する。しかしその奥には、イメージがいかにして増殖し、再物質化されるかという問いが潜んでいる。彼の絵画は、溶解しながらも崩れない。平滑でありながら厚みを感じさせる。古典的でありながらCG的である。その矛盾の持続こそが、彼の到達点である。


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