カツカレーカルチャリズム画家列伝93 ~キッペンベルガー 編

アート

露出と空洞のあいだで ─ マルティン・キッペンベルガーを参照点として

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

軽さが深さに触れる地点

マルティン・キッペンベルガーの作品を前にすると、多くの場合、判断の足場がわずかにずれる。概念的なのか、表現主義的なのか、批評的なのか、あるいは単なる冗談なのか。どれも当てはまるようでいて、どれも決定打にはならない。作品そのものは絵画、彫刻、ポスター、出版物、音楽活動にまで広がり、作家としての振る舞いは自己演出と破綻を含みながら持続した。美術史的にはポスト・コンセプチュアル以降のドイツの作家として位置づけられ、80年代のネオ表現主義の空気とも接続されるが、いずれの枠組みに収めてもわずかな違和感が残る。この違和感は、作品の内容というより、作品とその周囲にある態度の温度差から生じている。

キッペンベルガーの表現には、深刻さを拒む軽さがある。しかしその軽さは、単なる気分の軽さではなく、すでに深さが制度化され、意味が過剰に期待される時代における、ひとつの応答として現れている。戦後の概念美術や批評的実践が築いてきた「作品は意味を担うべきだ」という圧力を、彼は真正面から受け止めながら、そこに別の速度を持ち込んだ。重さを背負う代わりに、重さそのものを横にずらす。結果として生まれるのは、深さを装わない表面であり、しかし単なる表層とも言い切れない層である。この、深さと軽さが互いに打ち消し合うような地点が、彼の作品の基本的な座標となっている。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

70–80年代という時間層への反応

キッペンベルガーが活動した70年代後半から90年代半ばにかけては、前衛の理念が制度として定着し始めた時期でもあった。ボイスが象徴的に担った「芸術による社会変革」の理想、ナウマンに見られる身体と制度への批評的な関与、そしてネオ表現主義の絵画的回帰。こうした複数の流れが同時に存在するなかで、芸術はすでに自己批評の方法を獲得し、その方法自体が様式化しつつあった。キッペンベルガーはこの状況に対して、正面から理論的に応答するのではなく、あえて様式の混線のなかに身を置くことで反応した。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

彼の絵画や彫刻は、ときに意図的に粗雑であり、引用やパロディが混在する。そこには、ネオ表現主義的な筆致の誇張もあれば、コンセプチュアルな自己言及もあり、さらに個人的な逸話や自虐的なユーモアが重ねられる。結果として作品は、特定の時間層に深く潜るというよりも、複数の時間が同時に表面に現れては消えるような構造を持つ。歴史的文脈を無視しているわけではないが、歴史を沈殿させることもしない。むしろ、時間の層を意図的に撹拌し、深さが形成される前の状態に戻してしまうような感覚がある。

この態度は、ときに「浅い」と評される。実際、ネオ表現主義の絵画に対して抱かれた違和感と同様、感情や身振りが十分な内的葛藤や時間の堆積を経ていないように見える瞬間もある。しかしその浅さは、単なる未成熟というより、深さの演出がすでに可能になってしまった時代における、意図的な平坦化の試みとしても読める。つまり、深さを示すこと自体がひとつの様式になった状況で、彼は深さを示す手続きを過剰に露出させ、その手続きの空洞を可視化したとも言える。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

身振りの時代の到来

現在のアートシーンを振り返ると、作品の内容以上に、その形式や振る舞いがひとつの見世物として機能している場面が少なくない。インスタレーションやパフォーマンスが増え、コンセプトや文脈の説明が作品の理解に不可欠となる一方で、その説明可能性自体が評価の基準となる。作品は破綻なく成立し、意味は適切に配置され、観客はその構造を読み解くことができる。こうした状況では、作品が企画書やステートメントとほぼ同じレベルで完結してしまうこともある。作品が「何を言っているか」は明確だが、「なぜそれが作品である必要があるのか」という問いが宙に浮く瞬間である。

キッペンベルガーの仕事は、このような現在の状況を先取りするかのように、作品と振る舞いの境界を曖昧にしていた。彼の制作はしばしば自己演出と不可分であり、作品の評価と作家のキャラクターが混線する。だが重要なのは、彼が単に自分を見せることを目的としていたわけではない点である。自己演出は、作品の内部にある意味の核を強調するためではなく、むしろその核がどこにあるのかを曖昧にする方向に働いている。作家の身振りが前面に出るほど、作品の中心は掴みどころを失う。露出が増えるほど、核心が遠ざかる。この逆説的な構造が、彼の仕事を単なるパフォーマンスに還元できない理由のひとつである。

マウリツィオ・カテランの作品がしばしば話題性と批評性のあいだで揺れるように、キッペンベルガーもまた、作品が社会的な話題を生むことと、作品そのものの持続性のあいだに位置している。スキャンダルやユーモアは、表面的には軽やかだが、その軽やかさが持続することで、意味の中心が固定されない状態が保たれる。ここでは、作品の深さが内部に蓄積されるのではなく、外部との関係のなかで更新され続ける。意味は安定せず、しかし完全に消えることもない。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

混合と余剰の構造

キッペンベルガーの制作を特徴づけるもうひとつの要素は、異なる文脈や様式の混合である。高尚な美術史的引用と大衆文化的なモチーフ、自己批評と自虐、絵画と彫刻と出版物。これらは整然と統合されるのではなく、しばしば過剰なまま併置される。混合は調和を目指さず、むしろ余剰を生み出す方向に働く。この余剰が、作品を単純な意味の回路から外し、消費されにくい状態をつくり出す。

混合の結果として生まれるのは、ひとつの明確な中心を持たない構造である。複数の要素が互いに干渉し合いながら、どれかひとつが支配的になることを拒む。観客は作品を理解したようでいて、どこか理解しきれていない感覚を抱える。意味は読み取れるが、完全には回収できない。この回収不可能性が、作品の持続性を支えているとも言える。作品は完全に閉じることなく、しかし無限に開かれるわけでもない。中途半端な開閉の状態が維持される。

こうした構造は、現代の表現においてしばしば見られる、文脈の異なる要素の組み合わせとも共鳴する。ただしキッペンベルガーの場合、その組み合わせは必ずしも新しい意味を生成することを目的としていない。むしろ、意味が生成される前の混沌に近い状態を保つことが重視されている。混ぜることで新しい統合を作るのではなく、混ざり続ける状態そのものを持続させる。ここでは、完成や解決が目的ではなく、未決定の状態が価値を持つ。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

参照点としての位置

キッペンベルガーを現在から振り返ると、彼は特定の方向を指し示す作家というより、複数の方向が分岐する地点に立っているように見える。深さを強調する表現、概念を前面に出す表現、自己演出を作品化する態度、文脈の混合と余剰。これらはいずれも現在のアートにおいて一般的になった要素だが、彼の仕事はそれらがまだ安定した形式を持たなかった時期に現れている。言い換えれば、現在の表現の多くが当然の前提としているスタンダードが形成される過程を、彼は加速させながら露出させた。

その意味で、キッペンベルガーは模範というより参照点として機能する。彼の仕事をそのまま継承することは難しいし、単純に評価することもできない。しかし、彼の周囲で起きていたずれや混線を追うことで、現在の表現がどのような条件のもとで成立しているのかが見えてくる。作品が説明可能であること、身振りが可視化されること、文脈が共有されること。それらが当然とされる状況のなかで、どこまでが作品の内部で、どこからが外部なのかという境界は、ますます曖昧になっている。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

キッペンベルガーの作品は、この境界が揺らぎ始めた地点に位置している。彼は境界を明確に引くことも、完全に消すこともしない。むしろ、境界が引かれたり消えたりする瞬間を持続させる。そこでは、作品の中心が明確に提示されることはなく、しかし中心が存在しないとも言い切れない。観客は、何かが示されているようでいて、同時に何かが意図的に保留されている感覚を抱える。この保留の状態が、彼の作品の時間を現在まで引き延ばしている。 キッペンベルガーの重要性は、特定のスタイルや主題に還元できるものではない。むしろ、意味が過剰に期待され、深さが制度化され、表現が自己言及的になった時代において、作品がどのように持続し得るのかという問いを、彼は自らの制作と振る舞いを通じて浮かび上がらせた。露出と隠蔽、軽さと重さ、混合と余剰。これらが相互に干渉し合うなかで、作品の中心はつねにわずかにずれ続ける。そのずれが、彼の仕事を単なる時代の産物として閉じることを拒み、現在の制作にとってもなお参照可能な地点として残している。

出典:Artpedia/マルティン・キッペンベルガー

コメント

タイトルとURLをコピーしました