カツカレーカルチャリズム画家列伝84 ~大竹伸朗 編

アート

大竹伸朗 ― 盛りすぎた世界の体温

出典:Artpedia/大竹伸朗

スクラップブックという出発点 ― 幕ノ内マシマシの誕生

大竹伸朗が美術の文脈で広く知られるようになった契機は、1970年代末から継続的に制作されたスクラップブックの仕事にあった。雑誌の切り抜き、写真、広告、手書きのドローイング、絵の具、汚れ、焼け跡のような痕跡が、ノートや画面の上に貼られ、重ねられ、塗り潰されていく。それはコラージュと呼ぶにはあまりに過剰で、アッサンブラージュと呼ぶにはあまりに私的で、むしろ「集めてしまう衝動」そのものが可視化されたような仕事だった。

そこにあるのは、意味の整理や構成の洗練ではない。大竹は素材を選別しない。価値の高低、文化的な格、中心と周縁といった区別をほとんど行わず、嗅覚的に「気になるもの」「捨てられないもの」をただ抱え込む。その結果として生まれる画面は、整えられた一皿ではなく、仕切りが崩れ、味が混ざり、汁が他のおかずに染み込んだ幕ノ内弁当のように見える。しかも量は常識を超えている。幕ノ内マシマシという比喩は、この段階の大竹を非常に正確に捉えているのではないだろうか。

重要なのは、この過剰さが反芸術的な挑発や理論的な批評意識から出発しているわけではないという点だ。スクラップブックは思想を語らない。ただ、世界の断片を溜め込み、忘却される前に留めておく。そこに漂うのは、まだ言語化されていない時代の匂いであり、意味になる前のエネルギーである。大竹の初期仕事は、編集されたメッセージではなく、編集不能な現実の堆積として成立していた。

出典:Artpedia/大竹伸朗

空間化する過剰 ― サブカルトッピングからカツカレーへ

やがて大竹の方法は、ページや画面の内部から空間へと拡張していく。インスタレーションという形式は、スクラップブックの論理を裏切らなかった。貼ること、重ねること、溢れさせることが、そのまま部屋や建築のスケールに拡大されただけだったのである。

世田谷美術館「時代の体温」で提示された、バンドセットのようなインスタレーションは、その象徴的な例だろう。楽器、アンプ、ケーブル、壁面のイメージ群が組み合わされた空間には、実際に音が鳴っていないにもかかわらず、音楽の痕跡や熱気が濃密に充満していた。それは演奏の記録でも、舞台装置の再現でもない。すでに終わったか、これから始まるかもしれない、宙づりの現場である。

この段階で、鑑賞者はもはや安全な距離から作品を見ることができない。情報の量と物理的な密度によって、身体が先に反応してしまう。ここで幕ノ内マシマシだった大竹の仕事には、はっきりとした主食が加わる。比喩的に言えば、白米の上にカツカレーが全面的にかけられた状態だ。サブカルチャーの匂い、ロックやノイズの亡霊がトッピングされ、選ぶことも、整理することもできないまま、観客は満腹にさせられる。

カツカレーカルチャリズムの観点から見れば、これは混成を幸福として引き受ける段階を超え、混成による判断停止までを含み込んだ局面である。美味しいかどうかを考える前に、もう食べきれない。しかしその過剰こそが、大竹のインスタレーションの強度であり、「時代の体温」という言葉が示すように、思想ではなく温度として時代を伝える装置だった。

出典:Artpedia/大竹伸朗

直島のボート ― 沈黙、構造、意味の漂泊

直島に置かれたボート状のオブジェに対して、多くの鑑賞者は一種の戸惑いを覚える。スクラップブックやインスタレーションで体験した圧倒的な情報量や物質感を知っているほど、その造形はあまりにも静かで、簡素で、場合によっては「大竹らしくない」とすら感じられるからだ。しかし、この違和感こそが、直島作品の核心に触れている。

ここで起きているのは、要素の削減ではない。むしろ、要素が表面から姿を消し、内部に沈殿した状態である。かつてページや空間に氾濫していたイメージや音や匂いは、船体という単一の形態の中に圧縮され、外からは見えなくなっている。直島のボートは、スクラップブックの「外向きの過剰」が、「内向きの重量」へと反転した結果だと言える。

とりわけ象徴的なのが、船体に穿たれた円形の穴である。美術的な読解に慣れた鑑賞者は、そこに眼や宇宙、近代彫刻的なミニマリズムの引用といった意味を読み込みたくなる。しかし実際には、強風を受け流すため、構造を安定させるため、設置や管理の安全性を確保するためといった、きわめて実務的・工学的な理由が大きく関与している可能性が高い。

この点が決定的である。穴は、意味を表現するために開けられたのではない。作品を成立させるために、やむを得ず必要だった形なのである。つまりここでは、思想やコンセプトが形を決めたのではなく、環境や条件が形を要請している。その結果として、意味は作品に固定されず、漂泊する。

出典:Artpedia/大竹伸朗

直島という場所性も、この漂泊を強化している。海、風、産業の記憶、観光、建築、制度としてのアート。それらが複雑に交差するこの島において、ボートは移動や労働、放棄や漂流といった複数のイメージを同時に呼び起こすが、どれにも確定しない。係留されていない船のように、解釈は読む側の接近の仕方によって揺れ動く。

カツカレーカルチャリズム的に言えば、直島のボートは、すべてを食べ終えた後の皿に近い。混成も過剰も、すでに胃の中にあり、表面には静けさだけが残っている。しかし、その静けさは空虚ではない。何かが確実に通過した後の重さが、沈黙として存在している。派手さを失い、映えも拒否し、わかりやすさを手放すことで、大竹は逆説的に、もっともラディカルな地点に到達している。

出典:Artpedia/大竹伸朗

水彩という平熱 ― 嗅覚・エネルギー・収集癖の結晶

この流れの中で、しばしば引っかかりとして語られるのが、水彩による具象的な作品群である。軽い紙に描かれた風景や人物は、スクラップやインスタレーションの過剰さとは対照的で、静かで、抑制され、技術的にも確かに見える。しかしこの違和感こそが、水彩の正しい位置を示している。

水彩の具象は、大竹にとって表現の主戦場ではない。むしろ、嗅覚とエネルギーと収集癖が過剰に結晶化してしまう自分自身を冷やすための、平熱の装置である。水彩は盛れない。やり直しが効かず、にじみを完全には制御できない。不自由なメディアだからこそ、意味の漂泊をいったん止め、世界をそのまま描くしかない。

出典:Artpedia/大竹伸朗
出典:Artpedia/大竹伸朗

こうして振り返ると、大竹伸朗の仕事は一貫して、思想やコンセプトを前景化することを避けてきたように見える。嗅覚で世界を嗅ぎ分け、エネルギーで吐き出し、収集癖で抱え込み、そのまま固まってしまった結晶。それがスクラップブックであり、インスタレーションであり、直島のボートであり、水彩の具象なのだ。 カツカレーカルチャリズムをトッピングするなら、大竹は「美味しくする」作家ではない。匂いが消えることを拒み、混成が不快になること、満腹で判断できなくなることまで引き受ける。その体温は不安定で、測りにくい。だからこそ彼の作品は、理解されるより先に、身体に残り続ける。

出典:Artpedia/大竹伸朗

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