カツカレーカルチャリズム画家列伝80 ~オピー 編

アート

ピクトグラムは健康そうに見える ― ジュリアン・オピーとカツカレーカルチャリズム的視覚体験

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー

カツカレーカルチャリズムと「健康そうな表現」

カツカレーカルチャリズムとは、純粋性や正統性を神話化する文化的態度から距離を取り、混成・余剰・即時的快楽、そして「おいしそうに見えること」そのものを肯定的に引き受ける立場である。それは必ずしも本質的な栄養価や正しさを保証しない。むしろ、そうした保証が欠如したまま成立してしまう形式を、現代文化のリアリティとして捉え直す視座である。

この文脈においてジュリアン・オピーの作品は、きわめて示唆的な位置を占める。彼の人物像や風景は、平面的で簡潔、ノイズが少なく、いかにも「身体に良さそう」「視覚的にクリーン」な印象を与える。薬膳、有機栽培、有機飼育といった語彙が連想されるのも無理はない。だが重要なのは、オピーの作品が「健康である」とは一言も言っていない点である。

カツカレーカルチャリズムが問題にするのは、「おいしいかどうか」よりも、「おいしそうに見えてしまう状態」がどのように成立しているかである。オピーの視覚言語も同様に、「整っていそう」「癒やされそう」という印象を引き寄せながら、その効能をどこにも明示しない。この留保された状態こそが、彼の作品を単なるデザインやウェルネス表現から切り離し、現代美術として成立させている。

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー

公共サインと教会 ― 目的の宙づりとしての視覚

オピーの人物像がしばしばピクトグラムに喩えられるのは、その即時的可読性ゆえである。輪郭線と色面だけで構成された人物は、一瞬で「人」として認識される。これは公共サインが持つ視覚的機能性と極めて近い。しかし、公共サインが本来担うはずの「指示」は、オピーの作品からは完全に抜き取られている。

歩いている人物は描かれているが、どこへ向かうのかは示されない。立ち止まる理由も、行動の目的も与えられない。同様に、彼の風景アニメーションは、静けさや反復といった教会的空間を想起させる要素を備えながら、祈りや救済といった宗教的目的を欠いている。

公共サインが行為を方向づけ、教会が意味を方向づけるとすれば、オピーはその両者の「方向性」を意図的に宙づりにする。形式だけがあり、目的がない。この宙づり状態は、観者に対して何かを信じさせたり、正しく振る舞わせたりするのではなく、ただ「そこに留まる」ことを許可する。

カツカレーカルチャリズム的に言えば、これは「効能表示のない料理」に近い。身体に良さそうな見た目をしているが、栄養学的保証も、健康改善の約束もない。ただ、食べてしまうこと、見てしまうことだけが確かに起こる。

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー

意味の漂泊と現象学的価値の立ち上がり

ピクトグラムは本来、意味への最短距離として設計された視覚言語である。しかしオピーは、その形式を用いながら意味の帰還路を切断する。形はあるが、意味が定着しない。このとき漂泊しているのは作品ではなく、意味そのものである。

観者は「分かった」と思った瞬間に、「しかし何を示しているわけでもない」という状態に置かれる。この即時理解の空転が、観者を意味解釈から知覚体験へと押し戻す。ここで立ち上がるのは、メッセージとしての価値ではなく、現象としての価値である。

オピーの作品は、観者ごとに異なる体験を生む。落ち着く者もいれば、退屈する者もいる。何も感じない者もいるだろう。しかしそれらの差異は、作品の失敗ではなく、むしろ作品が成立した証左である。価値は作品の内部にあらかじめ埋め込まれているのではなく、最小限に整えられた視覚条件のもとで、観者の知覚が作動した瞬間に立ち上がる。

この現象学的な価値生成は、カツカレーカルチャリズムが肯定する「即時的だが保証されない経験」と深く共鳴する。おいしいかどうかは食べてみなければ分からない。健康かどうかは、あとからしか判断できない。オピーの作品も同様に、「良さそう」に見えることと、「良い」と断定することのあいだに、意図的な距離を保っている。

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー

ウェルネス以後の視覚文化としてのオピー

今日、静けさやミニマリズムは、しばしばウェルネスや自己改善の文脈に回収される。しかしオピーの作品は、その回収を巧妙に回避する。癒やしも、整いも、彼の側からは一切保証されない。整ったと感じるなら、それは観者自身の状態が反映された結果にすぎない。

この点でオピーは、「ケアを語らないケア」「健康を約束しない健康そうな形式」を提示する作家である。カツカレーカルチャリズム的に言えば、彼の作品は、具材は分かりやすく、盛り付けもクリーンだが、味の評価を拒むカツカレーである。おいしいかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、なぜか成立してしまう。

ジュリアン・オピーの現代性は、新しさや批評性の強度ではなく、この「非回収性」にある。公共サインにも、教会にも、ウェルネスにも回収されない視覚体験。意味が漂泊したまま、知覚だけが確かに起動する場。その場において、絵画的・映像的価値は、毎回異なるかたちで立ち上がる。 カツカレーカルチャリズムは、この不確かさを欠陥と見なさない。むしろ、それこそが現代文化のリアルな味わいだと考える。ジュリアン・オピーの作品は、その味を、極限まで薄めたスープのような形式で、私たちの前に差し出しているのである。

出典:Artpedia/ジュリアン・オピー

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