オフィリ ― 神聖と俗悪のカツカレー的混成

過剰な装飾の裏側にあるもの
クリス・オフィリの作品は、ひと目見た瞬間に強い印象を残す。ラメやグリッター、鮮烈な色彩、反復するパターン、さらには象の糞といった異物の使用。それらはしばしば「アフリカ的」「祝祭的」「プリミティブ」といった言葉で即座に把握される。しかし、その把握の容易さこそが、オフィリの作品の本質を覆い隠している。彼の絵画は、単に多様な要素を寄せ集めたものではなく、視覚的快楽と文化的緊張が同時に成立する、きわめて高度に設計された混成体である。
オフィリの画面には、アフリカ系ディアスポラとしてのアイデンティティ、カトリック的宗教性、ヒップホップやポルノグラフィといった大衆文化、西洋絵画史の構図や主題が、等価なレイヤーとして並置されている。そこには中心も周縁もなく、純粋性を主張する要素も存在しない。むしろ、互いに異質で、ときに反発し合う要素が、あえて一つの画面に留め置かれている点に特徴がある。この「同時成立」の感覚は、文化的洗練と猥雑さ、神聖と俗悪が衝突するのではなく、混在したまま機能する状態を生み出している。
カツカレーという比喩が有効なのは、まさにこの点にある。スパイスの効いたカレー、とんかつ、白飯という本来は別々の文脈を持つ要素が、同じ皿の上で共存し、それぞれの純粋性を失いながらも、結果として強い満足感を生む。オフィリの作品もまた、異文化的要素の混合によって「整理された意味」ではなく、「過剰で満腹な視覚体験」を提示するのである。

出身地ではなく、人種的親和性としてのアフリカ
オフィリは1968年にロンドンで生まれ、ナイジェリア系の家庭で育った。重要なのは、彼がアフリカで生活し、その文化を直接的に身体化した作家ではないという点である。彼にとってアフリカとは、具体的な生活文化や地理的な場所というよりも、「黒人であるがゆえに投影され続けるイメージ」として存在していた。イギリス社会において、黒人であることは常に「アフリカ的であること」と結びつけて理解され、その期待や偏見から完全に自由であることは難しい。
オフィリが引き受けたアフリカ性は、出身地としてのアフリカではなく、人種的親和性として想像されるアフリカである。それは、70〜80年代以降のブラック・ブリティッシュ文化に広く見られた特徴とも重なる。レゲェやラスタファリアニズム、アフロセントリズムといった文化は、必ずしも実地のアフリカ経験に基づくものではなく、むしろ差別や排除の中で形成された想像上の連帯として機能してきた。
オフィリは、この想像上のアフリカ性を否定も理想化もせず、視覚的に過剰化することで作品に組み込んだ。アフリカ的モチーフや素材は、彼にとって「起源への回帰」ではなく、「すでにそう見られてしまう状況」を可視化するための装置である。彼はアフリカ性を用いることで自らを規定したのではなく、アフリカ性によって規定されてしまう視線そのものを、画面上に露出させたのである。

ロンドン、帝国の中心からのねじれた混成
オフィリが活動の拠点としたロンドンは、かつての帝国の中心であり、多文化が集積する都市である。サッチャー政権下で成長した彼の世代にとって、移民、差別、暴動、文化摩擦は抽象的な問題ではなく、日常の現実だった。黒人であることは常に政治化され、不可視化されるか、過剰に象徴化されるか、そのどちらかを強いられる状況にあった。
90年代のロンドン美術界、いわゆるYBAの文脈は、衝撃性や素材の露骨さ、アイデンティティの直截な提示を評価する空気を持っていた。オフィリはその文脈を的確に理解し、自身の条件を最大限に可視化する戦略を取った。象の糞やポルノ雑誌の切り抜き、宗教的イメージの引用は、単なる挑発ではなく、「何が神聖で、何が俗悪とされるのか」という価値判断の恣意性を浮かび上がらせる。
代表作《The Holy Virgin Mary》において、聖母像は崇高さの象徴であると同時に、現代のメディア環境と欲望の只中に置かれる。そこには冒涜の快楽だけでなく、信仰や文化がもはや単一の価値体系として機能しえない現実が示されている。神聖と俗悪は対立項ではなく、すでに混ざり合った状態で存在している。このねじれた混成こそが、帝国の中心で生きるディアスポラ作家のリアリティであり、オフィリの作品の緊張感の源泉である。

カツカレーカルチャリズムとしてのオフィリの意義
オフィリの作品をカツカレーカルチャリズム的に捉えるとき、重要なのは、混成を無条件に祝福しない点にある。彼の絵画は、異文化の融合がもたらす幸福や快楽を否定しない一方で、その背後にある不均衡や誤読の可能性を消去しない。混ざることは創造的であると同時に、強制的であり、消費的でもある。その二重性が、画面の中に保存されている。
現代において移民問題や多文化共生が世界的な課題となる中、オフィリの成功を「モデル」として一般化することは危険である。彼の戦略は再現可能な処方箋ではなく、個人の才能、時代背景、美術制度の条件が重なった結果にすぎない。重要なのは、彼が混成を解決策として提示したのではなく、解決されない状態のまま提示した点にある。
カツカレーが、和食でも洋食でもない中途半端な料理でありながら、強い支持を得てきたのは、その中途半端さを引き受けているからである。オフィリの作品もまた、純粋性や正統性から逸脱した「落ち着かなさ」を抱えたまま、視覚的快楽を提供する。その快楽は単純な幸福ではなく、どこか居心地の悪さを伴う満腹感である。 オフィリは、多層的で対立する文化的要素をあえて同じ皿に盛り込み、混ざりきらない状態のまま提示する料理人のような存在だと言える。その作品は、混成の時代における創造の可能性と危うさを同時に示し、現代社会の複雑さを一枚の絵画の中に凝縮している。神聖と俗悪、洗練と猥雑、そのどちらかに回収されることを拒みながら成立するオフィリの作品は、カツカレーカルチャリズムの最も緊張したかたちの実例なのである。



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