カツカレーカルチャリズム画家列伝72 ~マイク・ケリー 編

アート

回収されないイメージの倫理 ― マイク・ケリーと90年代キッチュ

出典:Artpedia/マイク・ケリー

発見としてのマイク・ケリー ― 90年代文化の入口に立つ存在

マイク・ケリーを知るきっかけが、ソニック・ユースの『Dirty』のアルバムジャケットであった、という経験は特異ではない。むしろそれは、ケリーが90年代文化の「入口」に位置していたことを象徴している。彼の作品は美術館の白い壁よりも先に、オルタナティヴ・ロックやグランジ、ノイズといった音楽文化の文脈で若い受容者に届いた。ニルヴァーナやソニック・ユースの周囲に漂っていた、過剰で、不格好で、どこか不穏な感覚と、ケリーの作品は明確に共振していた。

この時代の受容において、ケリーはしばしば「キッチュの極み」として理解された。ぬいぐるみ、手芸、子ども向け教材、安価な素材。モダニズム的純粋性を信奉する視点からすれば、彼の作品は悪夢のような存在だっただろう。クレメント・グリーンバーグ的形式主義が夢でうなされる、という比喩は決して誇張ではない。だが重要なのは、ケリーが単に高尚な美学を裏切ったのではなく、「そもそも回収されるべきでないもの」を可視化してしまった点にある。

ケリーの登場は、90年代文化が抱えていた倫理的な転換点と深く結びついている。それは、もはや純粋性も、進歩も、癒しも信じられない状況において、何を表現として引き受けるのか、という問いだった。

ぬいぐるみの暴力 ― 無垢という神話の崩壊

ケリーの代表的モチーフである、使い古されたぬいぐるみや手作り人形は、しばしば「幼少期のトラウマ」を象徴するものとして説明される。しかしこの説明は、彼の作品の危険性を大きく減じてしまう。なぜなら、トラウマとして語られた瞬間、それは理解可能な物語へと回収されるからだ。

ケリーが扱っているのは、トラウマそのものというよりも、「無垢」という概念がいかにして制度的に構築されてきたか、その崩壊の現場である。教育、家庭、地域共同体。アメリカ社会が理想として掲げてきた健全な成長モデルの裏側には、必ず説明されなかった感情や、処理されなかった経験が沈殿している。ケリーのぬいぐるみは、その沈殿物が偶然表面化してしまったかのような姿をしている。

重要なのは、これらが決して「かわいそう」でも「癒される」存在として提示されていない点である。壊れているが、救済はない。暴力的だが、告発にもならない。鑑賞者は、どの感情を引き受ければよいのか分からないまま立ち尽くすことになる。この宙吊り状態こそが、ケリー作品の核心である。

出典:Artpedia/マイク・ケリー

90年代キッチュの倫理 ― グロテスクなハンバーガーセットとしての作品

ケリーの作品を、グロテスクなハンバーガーのポテト・コーラセットに喩える感覚は、非常に正確である。ハンバーガーは大衆文化、ポテトは過剰な快楽、コーラは空虚な爽快感。それらは本来、幸福なセットとして消費される。しかしケリーの提示するセットは、どこか食べる気がしない。脂っこく、甘すぎ、胃にもたれる。

90年代のキッチュとは、「楽しめてしまうこと」そのものに対する不信から生まれた倫理だった。アイロニーやパロディはすでに商品化され、反抗すらもスタイルとして回収される時代において、ケリーは「不味さ」を残すことでしか、表現の倫理を保てなかった。彼の作品は、混成文化の幸福を拒否するわけではないが、それが自動的に成立することを許さない。

この点でケリーは、今日的に言えばカツカレーカルチャリズムの裏面に位置している。多文化性、境界横断性、余剰性、美味しさ。そのすべてを一度は皿に載せながら、最後の一口で「これは本当においしいのか」と問い返す存在なのである。

出典:Artpedia/マイク・ケリー

なぜケリーは「不味さ」を引き受けざるをえなかったのか

ケリーがこうした表現を選ばざるをえなかった背景には、彼個人の資質と、アメリカ社会の構造が重なっている。アメリカは、共同体の理想像を強く掲げる社会である。健全な家庭、明るい子ども時代、成功への物語。その一方で、それらに適合しなかった経験は、置き場所を与えられないまま放置される。

ケリーは、その「置き場所のなさ」に極端に敏感な作家だった。彼は癒しを与えることも、批評として距離を取ることもできたはずだが、あえてどちらもしなかった。なぜなら、それらはすべて回収の形式だからである。彼の資質とは、未処理の状態を未処理のまま保持してしまう、ある種の残酷な誠実さにあった。

ここで日本との違いが際立つ。日本では、ぬいぐるみの暴力はキャラクター化され、型として組み込まれていく。痛みは情緒へ、グロテスクは様式へと変換される。ケリーの作品が日本でそのまま成立しにくいのは、日本社会があまりにも「回収が上手い」からである。

出典:Artpedia/マイク・ケリー

ケリー以後 ― 不味さを残すという制作倫理

マイク・ケリーを今日まとめる意義は、彼を模倣することにあるのではない。重要なのは、彼が示した制作倫理をどう引き受けるかである。それは、「うまく混ぜない」「説明しない」「幸福を保証しない」という態度に集約される。

カツカレーカルチャリズムが示す混成の幸福は、現代において極めて有効である。しかし同時に、それはあまりにも簡単に成立してしまう。ケリーの仕事は、その成立の速さにブレーキをかける役割を果たしている。混ざらないものを無理に混ぜたまま、皿として出してしまう。その不快さ、不安定さ、不味さを引き受ける覚悟こそが、ケリーの遺産である。

マイク・ケリーとは、グロテスクな作家だったのではない。彼は、回収されないイメージが生き延びるための、ほとんど最後の倫理を提示した作家だった。その倫理は派手ではなく、癒しも与えない。しかし、表現があまりにも簡単に「おいしく」なってしまう時代において、なお有効であり続けている。

出典:Artpedia/マイク・ケリー

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