未確定な像の倫理 ― ディア・アル=アッザウィと〈観測が形をつくる〉絵画

断片が先にある世界 ― ディア・アル=アッザウィの立脚点
ディア・アル=アッザウィは1939年バグダッド生まれの画家・版画家であり、20世紀後半以降の中東美術を代表する存在の一人である。考古学を学んだ経歴を持ち、古代メソポタミア文明、アラブ詩、イスラーム以前の神話的イメージと、20世紀西洋美術 ―とりわけキュビズムや表現主義― を横断する独自の視覚言語を築いた。
アル=アッザウィの絵画を理解するためには、まず「全体があって断片が生じる」という近代的世界観をいったん保留する必要がある。彼の制作においては、全体像は常に遅れてやってくる。最初にあるのは、ばらばらに存在する記憶、神話、暴力の痕跡、言葉にならない感覚であり、それらが同一平面に呼び集められることで、仮の秩序が立ち上がる。
この態度は、考古学を学んだ経験とも深く結びついている。考古学とは、失われた全体を復元する学問ではなく、残された断片から「かつて存在したかもしれない関係性」を想像する営みである。アル=アッザウィの絵画は、この考古学的思考を現在形で実践している。
重要なのは、彼が「意味」を完成させない点にある。画面は常に未完であり、観る者の認識が介入することで初めて、意味らしきものが生成される。ここで絵画は、情報の伝達装置ではなく、意識の反応を引き起こす場として機能し始める。

キュビズム以後、量子論以前 ― 観測が像を決定する
アル=アッザウィの平面性や断片性は、しばしばキュビズム的と評される。しかし彼の方法は、対象を分析的に分解するキュビズムとは決定的に異なる。彼は対象を壊していない。むしろ、対象がそもそも安定した形を持たないという前提に立っている。
この態度は、量子論における世界観と驚くほど親和性が高い。量子論では、粒子は観測されるまで確定した状態を持たず、複数の可能性が重ね合わされた状態(重ね合わせ)として存在すると考えられる。観測行為そのものが、状態を「選び取る」のである。
アル=アッザウィの画面においても、像は一義的に決定されていない。神話なのか、戦争なのか、過去なのか現在なのか。それらは確定されず、観る者の意識がどこに焦点を当てるかによって、意味の輪郭が変化する。つまり彼の絵画は、「観測が形をつくる」構造を、視覚的に実装していると言える。
この意味で、彼の作品はモダニズムの延長ではなく、むしろモダニズムを通過した後に現れる、認識論的絵画なのである。

戦争と神話 ― 時間の重ね合わせとしての平面
アル=アッザウィの作品における戦争と神話は、テーマとして並列されているのではない。それらは、同一の時間平面に重ね合わされている。ここで時間は直線的に流れるものではなく、複数の層が同時に存在する場として扱われる。
量子論における多世界解釈では、観測されなかった可能性も含め、すべての状態が並行して存在すると考えられる。この発想を援用するなら、アル=アッザウィの画面は、「起こってしまった歴史」だけでなく、「起こりえたかもしれない歴史」や「忘却された歴史」をも同時に含み込む空間だと言える。
神話は過去の物語ではなく、現在も作動し続ける思考の原型であり、戦争は例外的事件ではなく、文明が繰り返し選び取ってきた一つの状態である。彼の平面は、それらを時間順に整理することを拒み、重ね合わせのまま提示する。
このとき絵画は、説明ではなく、直観に訴える認識装置となる。
意識の潔癖と日本の美術受容 ― 観測を避ける態度
アル=アッザウィが日本で十分に語られてこなかった背景には、日本美術受容の無意識的な「意識の潔癖性」があるように思われる。政治性、宗教性、神話性、暴力性といった要素が混在する作品は、どこかで「不純」と見なされ、評価の手前で排除されてきた。
しかしこれは、観測を避ける態度でもある。量子論的に言えば、観測しないことで状態を確定させない選択であり、見ないことで世界を安定させようとする欲望だと言える。
アル=アッザウィの作品は、その態度を許さない。観る者は、断片に意味を与えるか、拒否するかを迫られる。中途半端な距離は成立しない。この点において、彼の作品は、日本美術の形成過程における盲点を鋭く照らし出す鏡となる。
混成を受け入れること、汚れを排除しないこと、未確定な状態に耐えること。それらは、日本美術がこれから掘り下げうる重要な地点でもある。

流れるイメージの時代における「見る」という行為
現代において、私たちはかつてない量のイメージに晒されている。SNSを通じて流れ続ける画像の多くは、意識的に観測されることなく消費され、忘却される。そこでは、見るという行為がほとんど自動化されている。
アル=アッザウィの絵画は、この状況に対する強いカウンターとして機能する。彼の画面は即時的な理解を拒み、注意と時間を要求する。観測しようとする意思がなければ、作品は意味を持たない。
ここで絵画は、情報ではなく、意識を呼び覚ます装置となる。ストラヴィンスキーが《プルチネルラ》や《アゴン》において、古い形式を通じて聴取の意識を更新したように、アル=アッザウィもまた、一見古く見える語彙を用いて、見るという行為そのものを問い直している。
カツカレーカルチャリズムと未確定性の肯定
アル=アッザウィの絵画は、異なる文化、時間、意識状態が混ざり合ったまま成立している。そこでは統一や純化は目指されず、未確定性そのものが肯定される。この態度は、カツカレーカルチャリズムの精神と深く共鳴する。
とんかつ、カレー、白飯が互いを溶かし合わず、しかし同一の皿に載っているように、彼の作品もまた、断片を断片のまま並置する。その並置が、観る者の意識によって一時的な秩序を得る。
世界は、完成された意味として存在しているのではない。観測され、意識化されることで、その都度、かたちを取る。アル=アッザウィの絵画は、その根源的な事実を、静かだが確実に示している。 そしてそれは、まさに今、私たちが向き合うべき課題なのである。



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