カツカレーカルチャリズム画家列伝67 ~杉本博司 編

アート

光と時間の層 ― 杉本博司の制作と思考のレイヤー構造

出典:Artpedia/杉本博司

写真を時間の装置として再定義すること

杉本博司の仕事を語る際、まず立ち返るべきなのは、彼が写真を「何かを写す技術」としてではなく、「時間を扱う装置」として徹底的に再定義してきた点である。一般に写真は一瞬を切り取るメディアだと理解されてきた。しかし杉本は、この前提を反転させ、極端な長時間露光によって、時間そのものを一枚の像の内部に沈殿させてみせた。

代表作《劇場》シリーズでは、映画一本分の上映時間にわたってシャッターを開き続けることで、スクリーンは白く焼き尽くされ、建築空間だけが静かに浮かび上がる。そこに写っているのは映画の物語ではない。むしろ、時間の総量が消去された痕跡であり、「出来事が終わった後に残るもの」の可視化である。写真はここで、瞬間の記録ではなく、持続の圧縮として機能している。

この操作は、《海景》シリーズにおいてさらに抽象化される。世界各地の海を同一構図で撮影することで、場所性や歴史的差異は極限まで後退し、人類誕生以前と以後を同時に想起させる像が立ち上がる。ここで提示されているのは風景ではなく、時間の原型であり、写真は自然の描写を越えて、存在論的な装置へと変質している。

出典:Artpedia/杉本博司

長時間露光と絵画制作時間のアナロジー

杉本の長時間露光は、単に「時間を写している」のではない。それは、絵画が本来内包してきた制作時間の構造を、写真という制度の内部で再演する行為として読むことができる。絵画は、描くという行為を通じて、迷いや修正、停止や待機といった時間を画面に含み込んできた。完成した絵画からは制作過程の物語は消えているが、時間の重さだけは確かに残っている。

《劇場》の白いスクリーンは、完成した絵画の画面と似た性格を持つ。制作の全過程が消失した後に、時間だけが凝縮された状態で立ち上がる。観者はそこに「どうやって作られたのか」を読み取ることはできないが、「長い時間がそこにある」ことだけは否定できない。この感覚は、優れた絵画の前で感じるものときわめて近い。

《海景》における反復もまた、モネの睡蓮やセザンヌの山のように、生涯をかけて同一モチーフを描き続ける絵画的態度と共振している。差異を競うのではなく、なぜ同じことを繰り返すのかという制作の時間性そのものが、作品の中心に据えられている。

出典:Artpedia/杉本博司

光が絵の具になるとき ― カラー作品の転回

2000年代以降のカラー作品において、杉本はさらに一歩踏み込む。プリズムやレンズを用いた抽象的な色面は、もはや何かを写した像ではなく、光そのものの配置として現れる。杉本が語ってきた「光が絵の具の役割を果たす」という認識は、比喩ではなく制作実感に根ざしたものだろう。

ここでは、光は情報ではなく物質として扱われている。フィルムや印画紙はキャンバスとなり、露光や屈折は筆致に相当する。写真は「撮る」ものではなく、「描く」ものへと接近していく。この転回によって、杉本の仕事は、写真で絵画を参照する段階を越え、写真そのものを光の絵画として再構築する地点に達する。

長時間露光が制作時間の量を可視化したとすれば、カラー作品は制作行為そのものを物質操作として提示する。時間と光という写真の起源的要素が、ここで絵画的実践として再統合されるのである。

出典:Artpedia/杉本博司

わび・さびという最上層 ― イチゴとしての日本性

後年のインスタレーションや建築的作品は、しばしば「わび・さび」や日本的精神性の文脈で語られてきた。古材、暗がり、余白、静謐といった要素は確かにそのような読解を誘発する。しかし、それらを杉本作品の本質とみなすのは、構造の取り違えである。

杉本の仕事をレイヤー構造として捉えるなら、わび・さびは最上層に位置する。光と時間という基底層、その上にある絵画的制作時間のアナロジーがあってはじめて、日本的象徴性は意味を持つ。ショートケーキに喩えるなら、わび・さびはイチゴに相当する。最も目立ち、語りやすいが、それだけを食べてもケーキの構造は理解できない。

この日本性は、伝統回帰でも文化的装飾でもない。むしろ、写真という西洋近代の制度を内側から解体し続けた結果、表層に現れた風味である。カツカレーカルチャリズム的に言えば、具材が主張せずに溶け合った末に立ち上がる味に近い。

出典:Artpedia/杉本博司

現代性との接続 ― 遅さというラディカリズム

杉本博司は、同時代性から距離を取っている作家と見なされがちだ。しかし実際には、現代性を別の時間解像度で引き受けている。即時性や可視性が過剰に加速する現代において、杉本は最も遅い時間軸を選び取る。地質学的、宗教的、宇宙的とも言えるスケールで時間を扱うこと自体が、現代への応答となっている。

デジタル化によってイメージが軽量化された時代に、杉本は光を再び重さのある物質として扱う。これはノスタルジーではなく、ポスト・デジタル以後の物質回帰であり、写真の存在論を更新する試みである。わび・さびもまた、過去の美学ではなく、情報過剰時代における遮光装置として機能している。

杉本の仕事は、純粋性神話を解体しながらも、混成を声高に主張しない。写真、絵画、哲学、日本文化が、互いに主張を弱めた状態で一皿に盛られている。そのあり方は、カツカレーカルチャリズムが示す「混ざり合いながらも統合されすぎない状態」と深く共鳴している。

杉本博司は、現代から距離を取ることで現代性を失った作家ではない。現代が失いつつある時間感覚と制作の重さを引き受けることで、現代性そのものを再設計している作家なのである。

杉本博司 瑠璃の浄土 世界初公開となるカラー作品「OPTICKS」って? リニューアルした京都市京セラ美術館はどんな? | 絵仕事

出典:Artpedia/杉本博司

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