カツカレーカルチャリズム画家列伝66 ~立石大河亞 編

アート

立石大河亞 ― 無毒な過剰、世界への全面的同意

出典:Artpedia/立石大河亞

過剰の磁場に現れた「異様な無毒性」

立石大河亞は、横尾忠則や田名網敬一と同じ戦後日本の高密度なイメージ生成の磁場に属しながら、きわめて異質な位置を占めている作家である。彼の画面は、密度、情報量、奇妙さ、想像力の奔流という点で、同世代の作家たちに決して劣らない。むしろ、恐竜や宇宙、異形の生物、人体、機械といったモチーフが同一平面上に共存する様は、過剰さの点では突出していると言ってよい。

それにもかかわらず、立石の作品には、同時代の日本的「過剰」が内包しがちな毒や攻撃性、皮肉や自嘲がほとんど見られない。過剰でありながら無毒であること。この逆説こそが、立石大河亞を理解するための出発点となる。

日本の戦後美術において、過剰はしばしば自己神話化、トラウマ、批評性、アイロニーと結びついてきた。横尾の自己神話、田名網の記憶と崩壊はその典型である。だが立石は、同じエネルギー圏にいながら、そうした「安全装置」を作動させない。その結果、日本的文脈においては、もっとも無害に見える存在が、逆にもっとも信用しにくい存在として浮かび上がる。

絵画としての立石 ― 陰影、量感、存在の重さ

立石の作品が「絵画的」に感じられる理由は明確である。彼は、イメージを記号や表層として扱うのではなく、光と影、量感、奥行きを通じて、世界を物体として立ち上げる。横尾のグラフィック的圧縮や、田名網の表層的なイメージの増殖と比べると、立石の画面には一貫して「重さ」がある。

キャラクターめいた存在でさえ、記号に回収されず、寓意にも収斂しない。ただそこに「居る」。この存在の仕方は、観念よりも前に、世界が立ち現れてしまう感覚を観る者に強いる。奇妙でありながら軽くならないのは、描写が省略されず、描く行為そのものが最後まで引き受けられているからだ。

ここで立石は、サイケデリックでもありながら、どこか前近代的な絵画の地層に足をかけている。シュルレアリスムや形而上絵画を想起させながらも、批評的な距離や冷笑は介在しない。世界は象徴化される前に、まず存在として描かれる。

出典:Artpedia/立石大河亞

ポストモダンではない肯定 ― 神道的世界観と近代のレイヤー

立石大河亞の態度は、しばしばポストモダン的な混交と誤解される。しかし決定的に異なるのは、そこにアイロニーが存在しないことである。引用は引用として処理されず、混ざり合った要素は距離化されない。神話も科学も、近代も前近代も、同一の実在レベルで並置される。

この世界観は、神道的アニミズムに近い。生と死、人と動物、自然と人工が分けられず、世界は出来事の集積として在る。ただし立石は、近代を拒否しているわけではない。科学や解剖学、遠近法や陰影といった近代的語彙は、世界を支配する原理ではなく、あくまで一つのレイヤーとして重ねられている。

重要なのは、その順序である。神話的・アニミズム的世界観の上に、近代が後から載っている。統合も対立も起こらず、ただ共存している。この構造が、立石の絵から批評性やメタ視点を奪い、結果として全面的な肯定の印象を生む。

日本で疑われ、海外で受け入れられた理由

立石が日本で評価されにくかった理由は、作品の質ではなく、日本側の受け取りの構造にある。日本文化には、過剰なものには毒があるべきだという暗黙の了解がある。無邪気な肯定や、距離を取らない態度は、かえって「うさん臭い」と感じられてしまう。

同じ磁場にいる日本人だからこそ、「そんなに世界を信じ切れるのか」という疑念が生じる。一方、海外、とりわけヨーロッパでは、日本的内部文脈は作動しない。そこで見られるのは、思想や態度よりも、絵画としての成立度である。空間は説得力を持つか、奇妙さは必然か、世界は自立しているか。

結果として、立石の無条件のコミットメントは、ナイーブさではなく、ラディカルな態度として読まれる。信じ切ること自体が、近代以後の世界では十分に危険であり、強度を持つ行為だからだ。

出典:Artpedia/立石大河亞

夢中で描くこと ― カツカレーカルチャリズム的帰結

立石大河亞がこうした作品を可能にした最大の要因は、目の前の絵に夢中になれたことにある。評価や意味、立場をいったん脇に置き、形がどう転ぶか、光がどう落ちるかに没入できた。その楽しさは軽薄ではなく、集中と持続に支えられたものだった。

ここで立石は、カツカレーカルチャリズム的な存在として理解できる。異なる起源の要素が一皿に盛られていながら、分解も分析もされず、そのまま供される。カツとカレーとライスを切り分けず、最初から一体として味わう態度である。立石は、混ざった世界を疑わず、そのまま描いてしまった。

その結果生まれたのが、過剰でありながら無毒、肯定的でありながら甘くない、奇妙でありながら逃げ場のない絵画である。立石大河亞は、日本美術における例外ではない。むしろ、信じることを避け続けてきた戦後日本の視線を、静かに試す鏡として存在している。

出典:Artpedia/立石大河亞
出典:Artpedia/立石大河亞

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