描き続けるしかない地点 ― 横尾忠則のエネルギー

達成の記憶 ― 横尾忠則のポスターが起こした事件
横尾忠則の仕事を語るとき、1960〜70年代のポスターを避けて通ることはできない。そこにあったのは、単なる優れたグラフィックではなく、視覚文化そのものを攪乱する事件だった。情報を明確に伝えるべきポスターという形式において、横尾は意味の即時的理解や洗練を平然と裏切った。色は過剰で、図像は土俗的かつ猥雑、構図は暴力的で、しばしば何の告知なのかすら分からない。それでも視線だけは強引に奪われる。この「わからなさ」と「引力」の同居こそが、横尾のポスターの本質だった。
この造形は、岡本太郎の「美しくあってはならない」「なんだこれは!」という言葉を、理念ではなく実践として街頭に実装したものだったと言える。岡本が神話的スケールで世界を揺さぶろうとしたのに対し、横尾は広告、看板、土産物、キッチュな印刷物といった、きわめて俗っぽい入口から爆発を起こした。そのため横尾のポスターは、崇高さよりも異物感として記憶に残る。
重要なのは、このポスター期が「挑発の途中」ではなく、明確な成功体験として完結していた点である。横尾は通じたことを知っている。評価され、影響を与え、時代の視覚を掴んだという実感があった。この成就感は、後の制作を語るうえで決定的に重要だ。なぜなら横尾は、達成を知らない作家の焦燥や怨念から出発していないからである。
この時期の横尾の仕事は、カツカレーの皿にたとえるなら、各要素が最も荒々しい形で同席していた状態に近い。とんかつは油を滴らせ、カレーは主張が強く、白飯は白飯として黙っている。調和はなく、混ざり合いもしない。ただ並置され、その不揃いさ自体がエネルギーになっていた。

画家宣言と自己破壊 ― うまくなることへの抵抗
1980年の〈画家宣言〉は、横尾忠則のキャリアにおいて単なる転向ではない。それは、一度達成を経験した者が、その場所に留まることを拒否した決断だった。ポスターやグラフィックは、外部の目的や依頼に奉仕するメディアであり、どれほど前衛的であっても「役に立つ」ことを免れない。横尾はその構造を誰よりも理解していたからこそ、あえて役に立たない絵画へと向かった。
画家宣言以後の自画像やY字路のシリーズには、明確な緊張が宿っている。自画像は本来、画家にとって自己確認や様式確立の場になりやすい。しかし横尾の自画像は、自己を固定するどころか、毎回異なる文脈に引きずり込まれ、溶解していく。顔は描かれているが、主体は安定せず、死や宗教、マンガ的図像、過去の自己像が侵入する。そこにあるのは「横尾忠則という個人」ではなく、イメージが通過していく身体である。

Y字路のシリーズもまた、象徴的である。横尾は旅先で偶然出会ったY字路に、強烈な既視感を覚えたと語っている。しかしそれは旅情の発見ではなく、選択が意味を持たない分岐への直感だった。どちらへ進んでも同じように見える道、あるいは進むこと自体が宙吊りにされる状況。これは、画家宣言後の横尾自身の状態と重なる。方向転換をしたはずなのに、どこへ向かっているのか分からない。その不確定性を、横尾は主題として反復した。
ここで重要なのは、横尾が「うまくなること」を否定していない点である。技術的には、彼は描けてしまう。構図も色彩も成立している。問題は、その「うまさ」が自己を安定させてしまうことだった。横尾は完成度を獲得するたびに、それを信用しない。意味が通りそうになると外し、まとまりかけると壊す。この態度は、信念を掲げて突き進む作家像とは正反対であり、むしろ信念そのものを疑い続ける姿勢に支えられている。
この段階の横尾の絵画は、カツカレーで言えば、味がまとまりかけた瞬間に、あえて混ぜないことを選び続ける皿である。とんかつはとんかつのまま、カレーはカレーのまま、白飯は白飯のまま。それぞれの来歴や主張を溶かさず、同席させる。この「まとめない」という決断が、画面に緊張を生んでいた。


惰性とエネルギー ― 晩年の制作が突きつけるもの
晩年の回顧展で発表された〈1日1枚・100号〉の連作は、横尾忠則の仕事のなかでも、とりわけ評価が分かれる。そこにはキュビズム的語彙の反復が見られ、形式は既視感に満ちている。かつて自画像やY字路にあった切実な格闘は後景に退き、エネルギーだけが前面に出ているようにも見える。惰性的だという印象は、決して的外れではない。
しかし、この惰性は単なる惰落ではない。それは、制作が自己を更新しなくなったあとでも、なお止まらないという状態の露呈である。横尾は、この惰性を「境地」や「円熟」として物語化しない。むしろ、そのまま公に差し出す。その結果、作品は不安定なまま宙に浮き、見る側に判断を委ねる。
この地点で、荒木経惟の晩年の写真が想起されるのは自然だろう。荒木の晩年作もまた、技術的完成度や新規性を欠きながら、撮らずにはいられない行為そのものが前景化している。花、空、猫、女、死。既視感に満ちたモチーフの反復。それでも完全には無視できないのは、惰性が作家自身を救っていないからだ。
惰性が「罪」になるのは、それが安全なときである。受け取られ方が予測でき、評価の枠内に収まると分かっている惰性は、エネルギーではなく信用を消費する。一方、惰性が罪にならないのは、それがなお危険を孕んでいるときだ。横尾や荒木の晩年作が居心地の悪さを伴うのは、惰性が彼ら自身をも守っていないからである。
カツカレーの比喩に戻るなら、ここではもはや新しい具材は追加されない。とんかつもカレーも白飯も、冷めかけているかもしれない。それでも皿は下げられず、食事は続いている。その光景自体が、見る者に問いを投げ返す。
いま作品を出すということ ― 横尾忠則の価値
横尾忠則の作品の価値は、個々の傑作を選別することでは測りきれない。むしろ、成功、達成、信念、惰性といった、作家が通常は隠したり整えたりする要素を、制作の内部に留めたまま可視化し続けた点にある。作品は完成品であると同時に、未整理の状態でもある。その矛盾を引き受けたまま、長い時間を生き延びている。
この姿勢は、現在の制作環境において、きわめて示唆的である。出し続けることが前提となり、惰性が可視化されやすい時代において、横尾の仕事は単なる過去の作家論にとどまらない。成功体験を肥料にし、信念を手放し、惰性すら露出させた先に何が残るのか。その問いは、いま作品を差し出す行為そのものに重なっている。
カツカレーの皿が示すのは、調和や完成ではなく、併置されたまま引き受ける態度である。混ざらなくてもよい、納得できなくてもよい。それでも差し出される一皿としての作品。横尾忠則の仕事は、その委ね方の厳しさと誠実さを、長い時間をかけて示してきたと言えるだろう。




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