中西夏之 ― 絵画場としての絵画
見ることが生成される場所について

像ではなく「場」をつくるという転回
中西夏之の絵画を前にすると、まず戸惑いが生じる。そこには鮮やかな色面があり、線があり、形がある。しかし、それらは何かを象徴したり、外部の世界を指し示したりするために配置されているようには見えない。むしろ、色や線は互いに干渉しながら、画面そのものの中で関係を結んでいる。その関係性は固定されず、見る位置や時間によって微妙に揺れ動く。中西が「絵画場」という言葉で示そうとしたのは、まさにこの状態である。
中西にとって絵画とは、完成されたイメージを提示する装置ではなく、知覚が生起する条件そのものだった。絵を見る行為は、対象を把握することではなく、身体が空間や色彩に応答しながら、自らの感覚を更新していく過程となる。そこでは「何が描かれているか」という問いよりも、「いま、どのように見えてしまっているか」という事実が前景化する。中西の実践は、戦後日本美術におけるモダニズムの形式主義とも、観念的なコンセプチュアル・アートとも異なる位置にある。それは、絵画を通して「見るという出来事」そのものを問い直す試みだった。
この転回は、ハイレッド・センターでの活動や、コンパクト・オブジェなどの実践とも連続しているが、とりわけ絵画において顕著に現れる。中西の絵画は、表現を削ぎ落とすことで純化を目指すのではなく、逆に、知覚の不確かさや揺らぎをそのまま画面に引き受ける。その結果として生まれるのが、像ではなく「場」としての絵画である。

色面、影、そして平面に生じる空間
セゾン美術館で展示された中西夏之の絵画群、とりわけ緑、白、紫を基調とした作品は、色面と線が絡み合いながら、不思議な空間感を生み出していた。明確な遠近法は用いられていないにもかかわらず、画面上には奥行きが感じられる。その要因のひとつが、色面の脇に置かれたグレーの、影のような輪郭である。このグレーは輪郭を強調するのではなく、逆に境界を曖昧にし、色面をわずかに浮かび上がらせる。

ここで生じているのは、モダニズム的な錯視としての奥行きとは異なる空間感である。それは画面の内部に仮想的な三次元空間を構築するものではなく、観者の身体が無意識のうちに補完してしまう空間である。平面であるはずの絵画に対して、身体が「近い」「遠い」「浮いている」と反応してしまう。その反応自体が、作品の一部となる。
中西の絵画は、強い輪郭や明確な構造によって視線を制御しない。むしろ、エッジをぼかし、判断の手がかりを弱めることで、観者の知覚を画面に沈み込ませる。この「沈み込み」は、絵画が観者に何かを主張している結果ではない。反対に、絵画が反撥をやめた結果として生じる。見る者は押し返されることなく、しかし完全に受け入れられるわけでもない、微妙な距離に置かれる。その距離こそが、中西の絵画場を成立させている。

反撥しないクッションと現象学的態度
中西夏之の絵画を特徴づける重要な点として、「反撥しない」ことが挙げられる。多くの近代絵画は、形式の強度や主張の明確さによって、観者の判断を即座に引き出す。しかし中西の絵画は、判断を成立させる直前で、そっと力を抜く。その結果、観者は「これは何か」を決めきれないまま、見続けることになる。
この状態は、現象学的な態度と深く関わっている。現象学とは、対象を概念で把握する以前に、どのように現れているかを記述する姿勢である。中西の絵画は、現象学を理論として説明するのではなく、体験として起こさせる。色面と影、線と余白は、観者の側に問いを投げかけない。問いは、見る行為の内部で自然に生成される。「なぜこう見えてしまうのか」「どこで空間を感じたのか」。その問いは言語化される前に、身体の感覚として立ち上がる。
この「反撥しないクッション」のような在り方は、弱さではない。むしろ、観者の感覚を信頼しているからこそ可能になる。作品が前に出すぎず、後退もしないことで、観者は自らの知覚と向き合わざるをえなくなる。中西の絵画が静かでありながら強度を持つのは、この点にある。

岡﨑乾二郎への連続と、現代への効能
中西夏之の実践は、その後の日本美術において、直接的な模倣よりも、態度のレベルで受け継がれている。その代表的な例が、岡﨑乾二郎の絵画である。岡﨑の作品は、より構造的で、より思考的であるが、観者の判断を跳ね返さず、自らに問いを返すという点で、中西と深く通じている。中西が身体のレベルで知覚の生成を開いたとすれば、岡﨑はそれを思考のレベルで展開したと言えるだろう。

この連続性は、単なる影響関係ではなく、絵画に対する姿勢の共有である。絵画をメッセージの媒体ではなく、関わり続けるための場として捉えること。この姿勢は、現代において重要な意味を持つ。即断や評価が求められる環境の中で、中西的な絵画場は、判断を遅らせ、感覚を保持する時間をつくり出す。
カツカレーカルチャリズム的に言えば、中西の絵画は、ごはんとカツがすでに用意されている皿のようなものだ。カレーをかけるかどうか、どのように味わうかは、観者に委ねられている。混ざりきらない要素が同じ場にあり、最終的な「味」は食べる側によって決まる。この比喩は、中西の絵画が観者の態度を含み込んで成立していることを端的に示している。
中西夏之の絵画は、完成された答えを与えない。その代わりに、見るという行為がどのように立ち上がり、どのように揺れ動くかを、静かに示し続ける。その在り方は、現代においてもなお有効であり、むしろ、判断や主張が過剰な時代だからこそ、必要とされている。絵画を「仕掛け」としてではなく、「場」として開くこと。その実践は、いまもなお、見る者の内側で更新され続けている。



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