宇佐美圭司 ─ ミニマリズムと日本的思考、身振り、アルゴリズム的世界感

ミニマリズムの方法を引き受けるということ ― 日本的思考との緊張関係
宇佐美圭司の絵画は、しばしばミニマリズム的な厳格さによって語られてきた。しかしその厳格さは、単に西洋近代美術の方法を踏襲したものではなく、日本的な思考様式との緊張関係の中で再構成されたものである。単純化された形態、反復される配置、感情や物語性の徹底した排除。画面に現れているのは、表現というよりも、あらかじめ設定された手続きが淡々と遂行された結果のように見える。その意味で宇佐美は、感情や即興性から距離を取り、制作を「方法」として引き受けた画家であった。
しかしここで重要なのは、宇佐美のミニマリズムが、アメリカ美術におけるそれと同一ではない点である。ドナルド・ジャッドやソル・ルウィットが、作品を「意味しないもの」として空間に提示しようとしたのに対し、宇佐美の画面は、意味を消そうとすればするほど、別の次元で意味を呼び込んでしまう。構造は冷静で論理的でありながら、見ているうちに、世界や宗教、社会といった大きなイメージが立ち上がってくる。この逆説こそが、宇佐美の絵画を単なるミニマリズムの亜流に終わらせず、日本美術史の中に固有の位置を与えている。
宇佐美は、論理を徹底することで情緒を排除したのではない。ここで言う論理とは、西洋的な演繹や説明の体系ではなく、むしろ型を守り続けるという日本的な実践倫理に近いものである。むしろ論理を極限まで純化した結果、情緒が「戻ってきてしまう」地点を、図らずも可視化してしまったのである。この点で彼の仕事は、ミニマリズムを方法として用いながら、その限界を内側から露呈させる試みだったと言える。
極限化された生活の身振りとしての「人型」 ― 情緒が型に沈殿する場所
宇佐美の代表的なモチーフのひとつに、反復される「人の形」がある。それらは誰かを描いた人物像ではなく、顔も個性も剥ぎ取られた、匿名的なシルエットに近い。しかもその姿勢は、四種類前後の限られた型に収束している。立つ、動く、腕を上げる、身をかがめる。これらは感情を表すジェスチャーではなく、社会的緊張の極限で人が取らされる、最小限の身体動作である。
この人型の出自としてしばしば指摘されるのが、アメリカの暴動やデモを報じた新聞・雑誌写真である。しかし宇佐美がそこから行った操作は、単なる引用や社会批評ではなく、外来のイメージを日本的な「型」の思考へと変換する作業だった。そこに写る人々は、個人としてではなく、群衆の一部として、あるいは状況に反応する身体として捉えられている。宇佐美はそこから、物語や政治的文脈を削ぎ落とし、身体の姿勢だけを抽出した。その結果、人は主体でも被写体でもなく、構造の中に組み込まれた単位となる。
ここで起きているのは、人間の冷酷な記号化ではあるが、同時に極めて現実的な把握でもある。そしてそれは、日本文化において長く培われてきた、個を消し、型を通して全体を感じ取る感性とも重なっている。極限状況において、人の行動は驚くほど限られた型に収束する。宇佐美はその事実を批評的に告発するのではなく、ミニマルな構造の中に静かに配置することで、見る側に判断を委ねた。その無言性が、作品に独特の緊張を与えている。

環境世界と宗教感が立ち上がる理由 ― 日本的世界把握としての反復
宇佐美の画面を見ていると、人型の反復が、やがて地表の模様や地球儀、あるいは衛星写真のように見えてくる瞬間がある。この視覚体験は、西洋的な遠近法的世界観というよりも、日本的な俯瞰と遍在の感覚に近い。中心のない構図、均質な密度、終わりのない反復。それらは、何かを象徴しているというよりも、世界そのものが一つのパターンとして立ち現れてくる感覚を生む。
この感覚は、主体が世界を見ているという近代的な図式とは異なる。むしろ世界が先にあり、人はその中の一要素として含まれている。人型は風景となり、環境の構成要素となる。ここに生まれるのは、環境世界的な視点であり、人間中心主義から一歩引いた世界の捉え方である。
同時に、この反復と均質は、宗教的な感覚とも共鳴する。それは特定の教義ではなく、儀礼や修行における反復行為がもたらす、日本的な宗教感覚である。祈りや写経、儀礼がそうであるように、同じ行為を繰り返すことは、個人を消し、型だけを残す。宇佐美の画面に宗教的な象徴は描かれていないが、配置と構造そのものが、瞑想的で儀礼的な時間を生み出している。ただしそこには救済も超越もない。宗教的構造を持ちながら、信仰の内容を欠いた、空白の宗教性が漂っている。

アルゴリズムと意味の無限増殖 ― ミニマリズム以後の日本的帰結
宇佐美の制作は、あらかじめ定められたルールに従って進められる点で、アルゴリズム的である。しかしこのアルゴリズムは、合理性や効率を目的としたものではなく、むしろ終わりのない反復を引き受ける、日本的な修練の構造に近い。形を決め、間隔を決め、それを最後まで守り抜く。感情ではなく手続きが作品を導く。しかし皮肉なことに、その厳格なアルゴリズムは、意味の制御を不可能にする。
画面には明確な読みの終点がなく、どこからでも解釈が立ち上がってしまう。要素は少ないのに、意味の可能性だけが際限なく増殖する。この構造は、現代のSNS的な情報環境と不気味なほど似ている。均質な投稿が延々と続き、個々は軽いが、全体としては重く、見る側の思考が勝手に深みに引きずり込まれていく。宇佐美の画面が孕む「怖さ」とは、感情的な恐怖ではなく、意味が止まらない状態そのものへの不安である。 このように見ると、宇佐美圭司の絵画は、ミニマリズムの方法、極限的な生活の身振り、宗教的構造、アルゴリズム的反復といった、異なる起源をもつ要素が、日本的な思考のフィルターを通過したうえで、一つの画面に並置された状態にある。それらは統合されず、互いを消さず、ただ同じ場所に存在している。そのあり方は、カツカレーカルチャリズム的と呼びうるだろう。宇佐美の作品は、静かで禁欲的な外見の裏側で、混ざりすぎた世界の深淵を、すでに示していたのである。



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