ゲルハルト・リヒター ― 判断保留としての絵画、撹拌され続ける視覚 ― 映像的揺らぎとレジリエンスの現在地

写真と抽象の分裂ではなく、同一の地平
ゲルハルト・リヒターの作品は、しばしば二つの極に分けて語られてきた。ひとつは写真をもとに描かれ、ぼかしを施された具象絵画。もうひとつは、絵具が厚く引き延ばされ、引き裂かれ、偶然性が前景化する抽象絵画である。一見すると両者は、再現と非再現、記憶と物質、イメージと行為という対立項に属しているように見える。
しかし、この分裂的な見え方自体が、リヒターの仕事の核心からはズレている。彼にとって重要なのは、「何を描くか」よりも、「どのように見えてしまうか」という問題である。写真を参照した絵画も、抽象的なスキージー作品も、いずれも主体的な表現を最小化し、網膜に写り込んだ光と空間が、ほとんどそのまま画面に移行してしまったような印象を与える。
ここで言われる「網膜のレディメイド化」という評価は、決して比喩ではない。リヒターの絵画では、世界はすでに見えてしまったものとして扱われ、画家はそれを加工する存在ではなく、保持し、遅延させる存在として振る舞う。具象と抽象の差異は、彼の内部ではほとんど意味をなしていない。どちらも「見えてしまった結果」であり、同じ地平に属している。
その意味で、リヒターの絵画は最初から、表現の選択ではなく、判断の保留を基盤にしている。


《アトラス》 ― 判断以前の視覚を保存する装置
この判断保留の姿勢が、最も露わな形で現れているのが《アトラス》である。1960年代初頭から現在に至るまで継続されているこのシリーズは、写真、新聞の切り抜き、雑誌画像、スナップ、家族写真、風景、色見本、構図のスケッチなどを、無数のパネルに貼り付けた巨大なイメージの集合体である。

《アトラス》は、制作のための資料集とも、下絵とも、完成作品とも言い切れない。リヒター自身もそれを「作品ではない」と述べているが、同時に展示し、公開し、更新し続けてきた。この宙吊りの位置づけこそが、《アトラス》の本質である。
ここでは、意味のヒエラルキーが完全に解体されている。ナチス時代の写真も、私的な家族の記録も、抽象画の試行も、風景も、すべてが等価な距離で並べられる。政治的に重いイメージも、形式的なメモも、特別扱いされることはない。見る者は、そこに「何が重要か」を指示されないまま、ただ視覚の氾濫に晒される。
この態度は、デュシャン的なレディメイドと近接しつつも、決定的に異なる。デュシャンが「選ぶこと」を芸術行為の核心に据えたのに対し、リヒターは「選ばれてしまったもの」、すなわち網膜に写り込んでしまったものを、そのまま保持し続ける。選択の決断は先送りされ、意味づけは無期限に保留される。
現象学的に言えば、《アトラス》は解釈以前の与件、すなわち「現れてしまったもの」を保存する場である。そこには反発も、主張もない。むしろ、どんな意味も一度受け止めてしまう、反発しないクッションのような柔らかさがある。あなたが感じた「撹拌しているように見える」という印象は、この装置の本質を的確に言い当てている。
重要なのは、《アトラス》が単なる周辺資料ではなく、写真絵画、抽象絵画、カラーチャート、ガラス作品へと分岐していく思考の母体であるという点だ。リヒターの多様な仕事は、この巨大な判断保留のプールから、それぞれ異なる仕方で浮上してきたにすぎない。


レジリエンスとしての判断保留、そして現在性
カラーチャート作品やガラス作品も、この文脈で捉えると位置づけが明確になる。工業的に規格化された色見本を並べたカラーチャートは、エルズワース・ケリーやミニマリズムの色彩研究と視覚的には似ている。しかし、リヒターにおいて色は構成や調和のための要素ではなく、すでに制度化されたもの、既成の秩序として扱われる。そこに感情や主体的判断が入り込む余地は、極端に制限されている。
ガラス作品も同様である。透明で、空間を映し、歪め、見る者の位置によって像が変化するガラスは、何も主張しないが、経験だけは確実に発生させる。ここでもリヒターは、意味やメッセージではなく、判断が宙吊りにされた経験の場を用意している。
こうした態度は、結果として作品を「消費されにくい」ものにしている。しかしそれは市場戦略として設計されたというよりも、判断を固定しないという姿勢を徹底した結果として生じたレジリエンスだろう。リヒターは一貫して「私は知らない」「決められない」という立場を取り続けてきたが、その態度自体が、時代が変わるたびに読み替え可能な柔軟性を獲得している。
現代は、イメージが過剰に流通し、即座の判断が求められながら、確信を持てない時代である。スクロールされ、保存され、共有されるが、結論には至らない視覚環境。その状況に対して、リヒターの作品は答えを与えるのではなく、同じ状態を静かに反復する。《アトラス》は、その最も純粋なモデルと言える。
ここに、いわばカツカレーカルチャリズム的な幸福も見えてくる。高尚な歴史、個人的記憶、政治的暴力、形式的実験が、同じ皿に盛られ、どれが主菜かも決められないまま共存している。混ざり合うが、溶け切らない。その雑多さこそが、何度でも味わい直せる持続性を生む。
ゲルハルト・リヒターが「現代最高の画家」と呼ばれる理由は、表現の強度ではなく、この判断保留の構造が、映像的揺らぎとレジリエンスを必要とする現在の感覚と、深いレベルでフィットしているからなのだろう。



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