カツカレーカルチャリズム画家列伝56 ~ステラ 編

アート

フランク・ステラ ― 幾何からオブジェまで、モダニズムを食い破るカツカレー

過剰に理知的であるという出発点

フランク・ステラの初期作品、とりわけブラック・ペインティングを前にすると、まずその「理知の強度」に圧倒される。画面には物語も象徴もなく、あるのは黒いストライプと、それを区切るわずかな間隔のみである。線の幅、反復のリズム、画面の端まで及ぶ構造は、感情や身振りを徹底的に排除した結果として現れている。

そこには、モンドリアンやマレーヴィチに連なる純粋抽象の系譜が明確に見て取れる。絵画を理念の器として極限まで純化しようとする態度、視覚以外の要素を切り捨てる潔さ。しかし、ステラのブラック・ペインティングは、その系譜に安住しない。理念の説明図として完結することを拒み、むしろ画面そのものが、異様な圧力と緊張を放っている。

一見すると極度に均質で、冷たい構造に見えるにもかかわらず、視線は画面上で奇妙に落ち着かない。規則は明快であるはずなのに、どこかでリズムが身体に引っかかる。この不穏さは、秩序が未完成だからではない。むしろ秩序が完成しすぎているがゆえに生じる感覚である。ステラは初期の段階から、モダニズムを外側から批判するのではなく、内側から膨張させる種をすでに抱え込んでいた。

重要なのは、彼が理論を拒否したのではなく、理論を徹底的に信じ、やり切った点である。中途半端な破壊や感情への回帰ではなく、理知を限界まで純化する。その先に、別の段階が不可避的に訪れる。この構造こそが、後年のすべての展開を貫く原点となる。

出典:Artpedia/フランク・ステラ

ブラック・ペインティングという臨界点

ブラック・ペインティングは、しばしばミニマリズムの起点として語られる。しかし、それを単に「ミニマルな絵画」として理解することは、決定的に不十分である。確かにそこには反復、規則性、非表現性といったミニマリズム的要素が揃っているが、同時にそれは、ミニマリズムが到達しえなかったものをも露呈させている。

画面に近づくと、ストライプは完全には均質ではない。刷毛の運動、塗膜のムラ、わずかな揺らぎが否応なく目に入る。そこには「描いた身体」が残っている。工業的匿名性を志向した後続のミニマリズムとは異なり、ステラのブラック・ペインティングは、最後まで絵画であり続ける。つまりそれは、ミニマリズムの論理に乗りながら、その純粋化に失敗している。

この失敗こそが重要である。秩序と身体、理論と痕跡、構造とリズムが同一平面上で引き裂かれたまま共存している。ブラック・ペインティングは、ミニマリズムの始点であると同時に、その限界点を最初から示してしまった作品群だった。

この緊張状態は長く持続できるものではない。ストライプは画面の縁に突き当たり、構造はキャンバスの形そのものを問い始める。平面という形式そのものが、もはや受け皿として不足している。この「もう足りない」という感覚が、次の展開を呼び込む。

出典:Artpedia/フランク・ステラ

平面の飽和と「もう足りない」という感覚

ステラの仕事が進むにつれ、平面は明らかに飽和していく。シェイプト・キャンバスによって絵画の外形そのものが構成要素となり、さらにレリーフへ、そしてオブジェへと移行していく過程は、単なる様式変化ではない。それは、ブラック・ペインティングに内在していた圧力が、形式を突き破った結果である。

出典:Artpedia/フランク・ステラ

理知的な構造は、ある地点を超えると、説明や自己言及では処理しきれない重さを生む。秩序が完成すればするほど、そこから溢れ出すものが増える。ステラにとって三次元化とは、感情表現への回帰ではなく、理知が自らを突き破るための必然的選択だった。

この現象は、美術に限らない。ストラヴィンスキーの《春の祭典》が、高度に構築された形式を背景に持ちながら、最終的に「原始的暴力」として聴取されるように、コルトレーンの《アフリカ・ブラス》が、精緻な理論の果てに集団的咆哮へと至るように。理知はしばしば、その完成点で「動物的なもの」「身体的なカタルシス」を欲してしまう。

出典:Artpedia/フランク・ステラ
出典:Artpedia/フランク・ステラ

オブジェ化と原始性 ― モダニズムが欲してしまった身体

ステラの後期作品、とりわけ巨大なオブジェや屋外彫刻に見られる過剰さは、しばしばフォーマリズムからの逸脱、あるいは「やりすぎ」として批判されてきた。しかしこの過剰は、放縦ではない。むしろ、抑制を極限まで続けた者だけに訪れる噴出である。

ここで言う原始性とは、自然回帰や素朴主義ではない。それは身体性の回復である。平面上の秩序が視覚の問題であったのに対し、オブジェは空間を占拠し、鑑賞者の身体を巻き込む。歩き、回り込み、見上げることで初めて成立する体験は、理論の理解とは別の回路で作用する。

ステラはモダニズムを否定したのではない。モダニズムを食べきったのである。幾何学、色彩理論、構成主義、フォーマリズム ― それらをすべて飲み込み、消化した結果、残ったものがオブジェだった。その姿は、カツカレーの皿にたとえるなら、整然と配置された具材が、ついに皿の縁を越えて溢れ出す瞬間に近い。

出典:Artpedia/フランク・ステラ

村上春樹 ― 理知が降りていく場所

この「理知が限界に達し、別の次元を欲する」運動は、文学においても明確に確認できる。村上春樹は、その代表例である。初期作品における均質な文体、軽やかな引用、ジャズ的構造は、極めて知的な装置として機能していた。世界は整理され、暴力や死はどこか抽象化され、透明な語りの中に収められていた。

しかし『ねじまき鳥クロニクル』以降、物語は地下へと降りていく。拷問、血、動物的な死、説明不能な悪意が前景化し、物語はもはや均質な構造を保てなくなる。これは思想の転向ではない。構造が完成してしまったがゆえの内破である。

ここでの村上春樹は、文学におけるステラ的存在として読める。秩序を愛し、秩序を磨き上げた作家が、ある地点で「もうこの場所にはいられない」と感じ、より粘度の高い領域へと踏み込んだ。その「降りたかった」感覚は、ステラが平面からオブジェへと移行した瞬間と深く響き合っている。

村上文学において象徴が次第に「重く」なっていくのも、この文脈で理解できる。それらはもはや軽やかなメタファーではなく、解釈を拒む物質的存在として読者の身体に触れる。理知を否定するのではなく、理知を使い切った果てに、その外側へと踏み出す。この誠実さこそが、両者を結びつけている。

カツカレーカルチャリズムとしてのステラ

最終的に、フランク・ステラの仕事は「計算された過剰の調和」として理解できる。幾何学的秩序、色彩、物質、情報、身体性 ― それぞれが強烈に主張しながら、一皿の上で衝突し、共存している。これは折衷ではない。衝突を前提とした統合である。

カツカレーカルチャリズムの観点から見れば、ステラはモダニズムという料理を、最も豪快に、最も美味しく食べ切った作家だった。理論を残さず咀嚼し、その結果として、皿から溢れる具材を隠さなかった。その過剰さこそが、20世紀後半から21世紀にかけての「情報と物質の混成美学」を先取りしていた。

ステラは降りたのではない。降りることで、次の地平を開いたのである。理知とカタルシス、秩序と逸脱。その両方を一皿に盛りつけることで、彼の作品は今なお、強い満腹感と余韻を与え続けている。

出典:Artpedia/フランク・ステラ
出典:Artpedia/フランク・ステラ

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