マティ・クラ―ワイン ― 黒いモダニティと未来の助走
《ビッチズ・ブリュー》からアフロフューチャリズムへ

マイルス・デイヴィス『ビッチズ・ブリュー』のジャケットを初めて目にしたとき、多くの人が音を聴く前に、すでに何かを「通過」してしまった感覚を覚えるだろう。マティ・クラーワインが描いたそのイメージは、アルバム内容を説明しない。むしろ、理解を拒む。二つの顔、血のような赤、深い青の海と宇宙。そこには物語の入口も出口もなく、見る者は唐突に、儀礼の最中へ放り込まれる。この強度こそが、《ビッチズ・ブリュー》が半世紀を経てもなお現在形であり続ける理由である。
暴走としての祝祭――黒いモダニティの感覚構造
《ビッチズ・ブリュー》期のマイルスが提示したのは、洗練された未来像ではなかった。反復されるリフ、渦巻くリズム、出口を失った即興。それは進歩の音楽ではなく、時間が暴走する音楽である。しかしこの暴走は破壊ではなく、臨界点への助走に近い。黒人ディアスポラの経験が生み出してきた「黒いモダニティ」は、近代の約束を享受できなかった歴史のなかで、理性や直線的時間とは別の感覚を育ててきた。過去は終わらず、死者は現在に重なり、祝祭と恐怖は分離されない。マイルスの音楽が不穏でありながら高揚を孕むのは、この感覚構造をそのまま音にしたからだ。
クラーワインのイメージもまた、同じ場所に立っている。そこに描かれるのは「悪」や「混沌」ではない。個人の輪郭が溶け、共同体的無意識へと沈み込む瞬間の危うさである。近代的主体にとっては恐怖に映るその状態が、儀礼的文脈では変容の入口となる。暴走は崩壊ではなく、救済が起動するための速度なのだ。
クラーワインのヴィジョン――流浪する生い立ちが生んだ多層的世界像
クラーワインの絵画が時代遅れのサイケデリアに見えないのは、それが未来を描いているからではない。むしろ、未来がまだ形を取っておらず、恐怖と混沌を帯びていた瞬間を保存しているからである。その背景には、彼自身の生い立ちが深く関わっている。
1932年、ドイツ系ユダヤ人の父とフランス人の母のもとに生まれたクラーワインは、ナチズムの台頭によって幼少期から移動を余儀なくされた。フランス、スペイン、最終的にはパレスチナへと渡る過程で、単一の母語や文化的帰属を持たないまま成長することになる。この「どこにも完全には属さない」経験は、後年の作品における多焦点的な世界把握を決定づけた。
彼の画面には、中心も序列も存在しない。古代神話、アフリカ的霊性、ヒンドゥーや密教的図像、西洋絵画の技法が、上下関係を持たずに同一平面へ置かれる。それは折衷主義というより、世界がそもそも分断されずに見えてしまう感覚の反映である。クラーワインにとって文化は選択肢ではなく、同時的に流れ込んでくる現実だった。
このヴィジョンは、後にアフロフューチャリズムとして結実する想像力の前段階に位置づけられる。宇宙や未来はまだ救済の舞台として整えられておらず、神話もキャラクター化されていない。クラーワインの画面は、宇宙船が到着する前の儀礼空間、すなわち変容が起こる直前の混沌を描いている。

アフロフューチャリズム ― 未来への跳躍としての祝祭
サン・ラ、パーラメント、アース・ウィンド&ファイアへと連なるアフロフューチャリズムは、奪われた過去を未来や宇宙神話として再構築する戦略であった。そこでは黒人史は被害の記録としてではなく、時間を再設計する力として扱われる。サン・ラの宇宙逃走、Pファンクの過剰で滑稽な祝祭、EW&Fの調和的宇宙観はいずれも、近代に回収されない近代を生きるための想像力の異なる相である。
重要なのは、これらの音楽が単なる娯楽ではなく、集合的儀礼として機能していた点だ。踊ること、繰り返すこと、身体を委ねることは、生存の技法だった。クラーワインのヴィジョンがこれらと共鳴して見えるのは、同じく祝祭と恐怖を分離せず、未来を完成形として提示しないからである。
未完の未来としての現在
この系譜は、コルトレーン後期の霊性的暴走を経て、BLM以後のブラック・ミュージックへと引き継がれる。ケンドリック・ラマーに代表される作品群は、怒りを叫ぶのではなく、怒りとともに生き続ける身体の歪みを露出させる。救済は宣言されず、完成しないまま持続される。ここでも暴走は終点ではなく、助走として機能している。
《ビッチズ・ブリュー》のジャケットが今なお「今の風」を孕んで見えるのは、そのイメージが過去の様式ではなく、未完の未来を引き受けているからだ。クラーワイン、マイルス、アフロフューチャリズム、そしてBLM以後の音楽は、直線的進歩の外側で、祝祭と恐怖を抱えたまま変容を続ける黒いモダニティの異なる表現形である。その未来はまだ到達していない。しかし、助走は終わっていない。



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