カツカレーカルチャリズム画家列伝103 ~キア 編

アート

混線の時代における英雄のほころび ― トランスアヴァンギャルディアからサンドロ・キア、そしてカツカレーカルチャリズムへ

前衛の終焉と横断の宣言 ― トランスアヴァンギャルディア の登場

1970年代末のイタリアで提示されたトランスアヴァンギャルディアは、前衛の終焉が語られた後の時代に登場した。「前衛を超える」という言葉は挑発的でありながら、どこか曖昧でもあった。理論的純化や進歩史観に依拠したモダニズム的前衛が疲弊し、コンセプチュアル・アートやミニマリズムが行き着くところまで行ったのち、再び絵画へ回帰する動きが現れた。その動向を批評家である アキーレ・ボニート・オリーヴァ が「トランスアヴァンギャルディア」と名づけたのである。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

この動向は複数のイタリア人作家によって展開され、国際的な評価を獲得した。彼らは様式の純粋性や進歩の論理を拒み、歴史の断片を横断的に引用し、神話や寓意、宗教的モチーフをも再び画面に呼び戻した。その姿勢は「回帰」と呼ばれもしたが、単純な復古ではない。むしろ歴史の断片を混線させること自体が戦略だった。

しかしここには常に疑問が付きまとう。本当に「前衛を超えた」のか、それとも前衛の語彙を用いた再商品化ではなかったのか。トランスアヴァンギャルディアは市場と制度のなかで急速に国際的評価を獲得し、80年代の美術市場の拡張と軌を一にした。理論的宣言とマーケティング戦略は不可分であり、両者を引き離して純粋な理念だけを抽出することは難しい。だがそのこと自体が、80年代という時代のリアリティでもあった。

演じられる英雄 ― サンドロ・キア の身体

そのなかでもサンドロ・キアの存在は象徴的である。彼の絵画に現れる人物像は、しばしば英雄的なポーズをとる。裸身の男、誇張された筋肉、彫刻のような体躯。彼らは堂々と立ち、画面の中心に君臨する。しかし同時に、その身体はどこか歪み、重心は不安定で、視線は定まらない。力強さと滑稽さが同居し、崇高さとほころびが同時に立ち現れる。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

この両義性がキアの核心である。彼は英雄を描くが、英雄の確信は与えない。ロマン的身振りはあるが、ロマンの無垢は失われている。画面にはしばしば古典的構図やルネサンス的空間の気配が漂うが、それは正統的再現ではなく、歪曲された引用である。イタリアという国はルネサンスの記憶を背負い、古典的造形が文化的無意識に深く刻み込まれている。キアはその宿命から逃れない。むしろ積極的に引き受ける。しかし彼の古典性は純粋な回帰ではなく、意図的なディフォルメを伴う。

そのディフォルメはマニエリスム的でもある。身体は誇張され、プロポーションは逸脱し、色彩はどこか人工的だ。だが単なる様式的引用ではない。そこには演劇的誇張と自己意識が入り込んでいる。英雄を描きながら、英雄を演じる行為そのものを露呈させる。キアの人物は「英雄である」よりも「英雄を演じている」ように見える。その距離が居心地の悪さを生む。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

混線と中心のかろうじての維持

この居心地の悪さは80年代の精神状況と響き合う。大きな物語が疑われ、政治的理想が失効し、消費社会が拡張するなかで、英雄像は真剣さを失っていった。しかし完全に消滅したわけではない。残骸のように、あるいは記号のように残り続ける。キアはその残骸を拾い上げ、過剰な身振りとして提示する。観者はそこにロマンを見出しつつ、同時にその演劇性を見抜いてしまう。この二重性こそが魅力であり、不安の源でもある。

さらにキアの絵画には、歴史的断片の混在がある。古典彫刻の引用、宗教的象徴、モダンな色面、漫画的誇張。画面は統一的様式へ収斂しない。むしろ混線を肯定する。しかしその混線は無秩序ではない。英雄的身体という強度が画面を支点としている。つまり、混線のなかにかろうじて中心がある。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

等価化の時代 ― カツカレーカルチャリズムとの接続

この点で、混線を前提とする思考として提示される「カツカレーカルチャリズム」との比較が浮上する。カツカレーという料理は、異なる要素が重なり合いながら一皿として成立する比喩である。そこでは素材は並列的に置かれ、混合そのものが価値となる。歴史の断片も、様式も、文化も、すべてが等価なトッピングになりうる。

トランスアヴァンギャルディアは歴史横断を行ったが、それはまだ事件性を伴っていた。前衛の禁欲を破り、引用と物語を回復すること自体が挑発だった。しかし混線が常態化した現代においては、引用や折衷は驚きではない。むしろデフォルトである。カツカレーカルチャリズムはその状況を自覚的に肯定するが、同時に意味の希薄化という危険も抱える。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

キアの画面がなお緊張を保っているのは、混線のなかに強度の偏りを残しているからだ。英雄という重い形式をあえて中心に置き、そのほころびを露出させることで摩擦を生む。対してカツカレーカルチャリズムがすべてを等価化するなら、摩擦は観者の内面へ移動する。混線をどう受け入れ、どう位置づけるかは観者に委ねられる。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

混線を再び事件化するために

ここで問われるのは、混線をいかに再び事件化するかである。混ざっていることが当たり前の世界で、どこに圧力をかけるのか。キアは過剰な身振りによってそれを行った。ならば次に必要なのは、時間差を生むことかもしれない。あるいは重さの偏りを意図的に強調することかもしれない。

トランスアヴァンギャルディアは前衛を超えたのか。その問いは単純に肯定も否定もできない。それは前衛の理念を批評的に再利用し、同時に市場の論理と結びついた運動だった。しかしその曖昧さこそが80年代の真実であり、キアの絵画はその矛盾を体現している。英雄的ロマンとその崩れ。古典的引用とディフォルメ。強度と滑稽。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

混線を調和するのは画面ではなく、観者の内部である。そう考えるなら、トランスアヴァンギャルディアもカツカレーカルチャリズムも、最終的には観る者の態度を問う装置となる。立ち止まり、考え、受け入れ、再配置する。そのプロセスそのものが意味を生成する。

もしすでにカテゴライズされ、解体されているのだとすれば、そこから再び意味を掘り起こすための仕掛けが必要である。混線を肯定するだけでなく、混線のなかに重心をつくること。あるいは意図的に重心を失わせること。その選択の仕方が、次の局面を決定する。

キアの英雄は完全ではない。そのほころびが、混線の時代におけるリアルである。そこからさらに一歩進むなら、英雄を演じることの必然と不可能を同時に引き受ける態度が必要になるだろう。トランスアヴァンギャルディアの可能性は、終わった様式としてではなく、混線のなかで強度をどう生むかという問いとして、いまなお開かれている。

出典:Artpedia/サンドロ・キア

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