カツカレーカルチャリズム画家列伝102 ~横山裕一 編

アート

横山裕一の運動と中間域 ― 漫画、絵画、そして公共空間の拡張

横山裕一は、一般的には「漫画家」と呼ばれることが多い。しかし、その表現は漫画の枠に収まらず、美術の文脈でも高く評価されている。彼の作品は、漫画と絵画という二つの制度の境界を横断するだけでなく、商店街のシャッターやトラックなど公共空間にまで展開される点で、制度や場所に縛られない表現の幅を示している。横山は美術大学で油絵を学び、描写技術や画面構造の知識を十分に習得していた。その経験があるからこそ、彼は敢えて物語を削ぎ落とし、運動と過剰性を主題にした独自の漫画表現を選択することができた。

出典:Artpedia/横山裕一

横山の漫画作品は、一般的なストーリー漫画とは大きく異なる。人物の心理描写や因果関係に基づく物語はほとんど存在せず、代わりに構造物や人物、線、擬音が画面上で過密に配置され、運動が加速的に展開する。コマ割りは時間の区切りとして機能するが、通常の物語の推進力を与えるものではない。ページをめくる行為自体が身体的なリズムの経験として設計されており、読者は物語ではなく運動の加速、振動、反復のリズムを感覚的に体験する。

出典:Artpedia/横山裕一

この運動は、日本的な平面性と、ボッチョーニ的未来派のダイナミズムを同時に感じさせる。ボッチョーニは奥行きのある空間で物体が連続的に運動する姿を描き、速度そのものを形態化した。

出典:Artpedia/ウンベルト・ボッチョーニ

横山も同様に速度や運動を可視化するが、奥行きよりも画面の過密化によって加速感を作り出す。人物や構造物が複数方向に並列的に重なり、振動し、増殖する様子は「幕ノ内的ごった盛り」と形容でき、秩序や主旋律を欠いた同時性が画面に祝祭性をもたらす。運動は未来へ向かう矢印ではなく、現在の増幅として現れる。物語が削ぎ落とされているため、運動そのものが主体化され、読者はページをめくる行為を通じて身体的に没入する。

出典:Artpedia/横山裕一

また横山の作品はパステル調の色面による平面性が際立つ。色はフラットに置かれ、奥行きよりもリズムと構造が優先される。油絵での訓練があるからこそ、過密で複雑な画面でも秩序感を保つことができる。線や色面の配置、コマの構造には計算が働いており、偶然の爆発ではなく確信犯的に設計された過剰性が読者に伝わる。描ける技術をあえて制御して使わず、物語を削ぎ落とすことが、作品に独自の強度を与えているのである。

さらに横山の作品は、制度横断的である点も特筆に値する。漫画の装置であるページ、コマ割り、吹き出し、擬音といった要素を熟知し、美術的訓練によって色彩、構図、画面構造を理解している。両者の知識を活かしながら、漫画的規範と絵画的規範を部分的に破壊し、両制度の境界を曖昧にすることで、中間域でしか成立し得ない表現を生み出した。この中間域は単なるスタイルの折衷ではなく、両制度を知ったうえで「どちらにも回収されない場」を意図的に作り出す戦略的選択である。

出典:Artpedia/横山裕一

こうした制度横断的表現は、カツカレーカルチャリズムの観点からも理解できる。カツカレーカルチャリズムは多文化性、境界横断性、余剰性、美味しさ(映え)の視点で文化を分析する理論である。横山の作品には、物語を削ぎ落とすことで余剰性が生まれ、漫画と美術の規範を横断することで境界横断性が現れる。画面に散乱する情報、運動の増幅、色彩の盛り込みは、視覚的快楽として体感され、「美味しさ」に通じる。物語や奥行きの秩序はあえて排除され、過剰な情報と運動だけがトッピングされた祝祭的空間として画面が存在するのである。

出典:Artpedia/横山裕一

さらに横山は作品のフィールドを公共空間にまで拡張している。商店街のシャッターやトラックに描かれた作品は、制度的にはパブリックアートに含まれるが、従来のパブリックアートとはその意図が異なる。従来のパブリックアートは、公共空間の秩序や景観に奉仕し、観る者に美やメッセージを提供することが多い。横山の場合、公共空間は単なるキャンバスではなく、運動と過剰を提示するための舞台である。シャッターやトラックに描かれた作品は、場所や移動性を利用して運動と情報の過剰を増幅するものであり、街全体を巻き込む「運動体験の拡張」として機能する。静止したパブリックアートではなく、移動や変化によって空間を変換する表現として、街や日常生活に祝祭性を持ち込むのである。

横山裕一の公共空間での表現は、漫画的運動の拡張として解釈できる。運動の連続性、過剰性、中間域の体験を、街や交通の中に持ち込み、観る者の知覚を刺激する。物語を削ぎ落とした運動表現が、公共空間に現れることで、日常的な視覚環境に異物感と興奮を与え、街全体を祝祭的なリズムで包み込む。この点で、横山の公共表現は、制度や場所に縛られない「動的パブリックアート」と言える。

出典:Artpedia/横山裕一

総じて、横山裕一の表現は、漫画的装置、油絵的平面構造、運動の過剰、公共空間への展開、そして中間域での制度横断性を統合した独自の創造的実験である。物語を削ぎ落とすことで運動が主体化され、過剰性が祝祭的な快楽となり、公共空間では街全体がその運動の舞台となる。美大での油絵訓練があるからこそ、過剰な情報と運動の中にも秩序が生まれ、中間域の不安定さが精緻に設計される。漫画と絵画、静的な作品と公共空間、計算された秩序と過剰な祝祭性という二律背反が同時に存在することこそ、横山裕一の作品を現代における独自の表現として際立たせている。

出典:Artpedia/横山裕一

横山裕一は、漫画と絵画の中間域に身を置きつつ、運動を軸にした表現を公共空間にまで拡張することで、従来のジャンルや制度に縛られない新しい視覚体験を提示する作家である。その意図的な「どっちつかず」は、偶然の曖昧さではなく、計算された確信犯的表現であり、観る者に中間域の快楽と不安定さを同時に体感させる。この戦略こそが、横山裕一の作品が現代の表現の中で特異な位置を占める理由であり、その重要性を示している。

出典:Artpedia/横山裕一

コメント

タイトルとURLをコピーしました