カツカレーカルチャリズム画家列伝101 ~会田誠 編

アート

会田誠 ― 否ピュア時代の混成と摩擦

否ピュアという地盤

二十世紀末、日本の美術は一つの地殻変動の上にあった。ポストモダンという言葉が流通し、引用やパロディはもはや方法論として目新しいものではなくなっていた。だがその次の段階、すなわち「純粋性そのものが前提として成立しない」という地平において、どのように制作が可能かという問いは、まだ明確なかたちを得ていなかった。

出典:Artpedia/会田誠

この否ピュアの時代において、混成は戦略ではなく条件となる。文化も歴史もイメージも、すでに交差し、混ざり合い、分離不可能な状態にある。ここから出発するしかないという感覚が、九〇年代の日本社会には漂っていた。バブル崩壊後の空洞化、国家意識の揺らぎ、サブカルチャーの顕在化。あらゆる記号が同一平面に並び始めた時代である。

この地盤の上で登場した会田誠は、混成を洗練された理論で整理するのではなく、画面の衝突として提示した。彼の作品は、混ざってしまっている現実を「整えずに見せる」という態度を明確に打ち出す。それはポストモダン的引用の軽やかさとは異なり、むしろ否ピュアの重さを引き受ける行為だった。

制度内部からの攪乱

会田は東京藝術大学で日本画を学び、制度の中心で訓練を受けた作家である。この事実は決定的に重要だ。彼は周縁から侵入した異端者ではなく、正統な技術と画面構成能力を獲得した上で逸脱した。

出典:Artpedia/会田誠

日本画的平面性、西洋的遠近法、アニメ的線描、歴史画の構図。それらは彼の画面に同時に存在する。セーラー服と韓服をまとった少女像、ニューヨーク上空を旋回する零戦、パルテノン神殿と原爆ドームを混成した建築。これらは単なるアイロニーではなく、制度内部で培われた描写力によって具体化される。だからこそ衝撃を持つ。

出典:Artpedia/会田誠

とりわけ、古典文明の象徴としてのパルテノン神殿と、被爆の痕跡として保存され続ける原爆ドームの接続は、単純な政治批評では回収できない。そこにあるのは、西洋近代の理性と日本の戦後記憶を一本の建築的身体に縫合する行為である。文明史の純粋な連続性も、被害の単線的物語も、その瞬間に解体される。崇高と破壊、普遍と局所、勝者の歴史と被爆の痕跡が、同一の構造物として立ち上がる。その不自然さは、文化の純粋性を前提とする思考そのものを拒否する。

出典:Artpedia/会田誠

ここで露呈するのは、歴史が本来持っている混成性ではない。むしろ、純粋であったかのように語られてきた物語の脆さである。原爆ドームは保存によって聖域化された記憶の装置であり、パルテノン神殿は西洋文明の原型として理想化されてきた形式である。それらを接続することは、聖域と原型を同時に不安定化することに等しい。この構造は「非純粋」という穏やかな状態記述を超え、「否ピュア」と呼ぶほかない緊張を孕んでいる。

もし稚拙な描画であれば、それはサブカルチャーの延長として処理されたかもしれない。しかし会田の画面は、古典的構図と技術的精度を備えている。その内部に異物を流し込むことで、絵画という制度そのものを揺らす。これは外部批評ではなく、内部爆発である。制度の言語を習得した者だけが可能にする攪乱であり、否ピュアの鋭さはそこに由来する。

混成の祝祭と摩擦

カツカレーカルチャリズムは、多文化性、境界横断性、余剰性を前提とする理論である。異質なものが同一平面で共存する状況を肯定的に捉え、混成の構造を読み解く枠組みだ。しかし会田の仕事は、その祝祭性だけでは説明できない。

彼の混成は、しばしば消化不良を残す。文化記号は溶け合うのではなく、衝突したまま提示される。ナショナルなイメージとポップな美少女像は調和せず、歴史的暴力と軽快な図像は均衡しない。そこにあるのは「おいしい混成」ではなく、噛み応えのある硬質な要素である。

だがこの摩擦こそ、否ピュア時代のリアリティである。混ざることは避けられない。しかし混ざったものが常に幸福を生むとは限らない。会田はその不穏さをあえて残す。カツカレーカルチャリズムが混成を許容する理論であるならば、彼の画面はその射程を拡張する極端値として機能する。祝祭だけでなく、ざらつきも含めて混成を引き受けること。それが理論の成熟である。

出典:Artpedia/会田誠

アジテーションと距離

会田の作品はしばしばアジテーション的に受け取られる。大画面、強い図像、歴史や国家への直接的言及。観者を挑発する力は確かにある。しかしそれは単純な煽動とは異なる。彼は道徳的優位から糾弾するのではなく、自らも欲望の内部にいることを前提とする。

この態度は、九〇年代という時代の精神と深く関わっている。理想主義は信じきれず、かといって冷笑にも安住できない世代。真面目さと照れが同居し、誇張と自嘲が交差する。その緊張が画面に刻まれる。

カツカレーカルチャリズムの観点から見るならば、会田は混成を叫ぶ存在ではなく、混成がもたらす倫理的な居心地の悪さを可視化する存在である。アジテーションに見える強度も、実際には未消化の歴史と欲望を抱えたままの姿勢に由来する。距離を感じさせながらも無視できない。この両義性が、彼の領域を形成している。

出典:Artpedia/会田誠

居場所としての理論

カツカレーカルチャリズムが目指すのは、混成を単に称揚することではない。否ピュアを前提とし、その内部でどのような表現が可能かを考える枠組みである。会田誠のような作家が存在してよいと認めること、それ自体が理論の強度を示す。

混成は避けられない条件である。そこから祝祭が生まれることもあれば、摩擦が残ることもある。重要なのは排除しないことだ。爆発型の表現も、沈黙型の表現も、理論型の表現も、同じ地盤の上に立つ。

会田はカツカレーカルチャリズムの中心的な祝祭者ではない。むしろ硬質なナッツのように、噛み応えを残す存在である。しかしその硬さがあることで、理論は甘さに流れない。混成の現実を構造的に捉え、許容する。その鍋の中に彼の居場所はある。

否ピュア時代において、純粋を夢見ることは容易ではない。だからこそ、混ざってしまった世界の中で、どのように立つかが問われる。会田誠の画面は、その問いを過剰なまでに可視化した。カツカレーカルチャリズムは、それを回収するのではなく、存在を支える枠組みとして機能する。 混成の祝祭も、混成の摩擦も、ともに引き受ける。そのとき理論は単なる分析を超え、否ピュア時代の倫理へと接続するのである。

出典:Artpedia/会田誠

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