断定の平面、混淆の毒 ― ピーター・ソールとカツカレーカルチャリズム再考
違和の発生源
ピーター・ソールの絵画は、しばしば最初の瞬間に拒否反応を引き起こす。強烈な原色、露悪的なモチーフ、漫画的な輪郭線、肥大し歪んだ身体。画面は騒々しく、品位よりも過剰が前面に出る。そこには「ふざけているのではないか」という疑念すら生じる。しかしこの違和は、絵画が弱いからではない。むしろ逆である。画面があまりに強く、しかも無遠慮であるために、観者の側の受容態勢が揺さぶられるのである。

ソールは1960年代のアメリカにおいて、ポップ・アートの隆盛と同時代を生きた。同時代のポップが消費社会のイメージを平滑に提示したのに対し、彼はそれらを歪め、溶解させ、過剰化する。イメージは肯定的に引用されるのではなく、誇張され、暴走し、異様なまでに拡大される。彼の方法は洗練された距離化ではなく、むしろ過度な接近である。対象に触れすぎることで、それを破壊する。この「やりすぎ」が、最初の違和を生む。
しかし、その過剰の背後には、極めて明確な絵画的判断がある。ソールの画面は決して無秩序ではない。むしろ平面としての統御は徹底している。違和の正体は、主題の過激さよりも、平面が発する断定の強度にある。

色面の衝突と構図の圧力
ソールの絵画的構造を注意深く見ると、まず色面の扱いが目につく。彼は色を混濁させない。ピンクはピンクのまま、緑は緑のまま、補色は露骨に対置される。グラデーションはあっても、それは空間的奥行きをつくるためというより、色面の存在感を強調するために用いられる。色は光を表すのではなく、面として画面に貼りつく。
輪郭線は太く、形態は明確に区切られる。面と面は重なり合うよりも、ぶつかり合う。空間は浅く、遠近法は意図的に圧縮される。結果として画面は奥へ引き込むのではなく、前方へ押し出してくる。視線は画面内部に入り込むのではなく、表層に衝突する。
構図もまた中央集権的であることが多い。主題は画面中央に置かれ、周囲の要素はそれを取り囲むか、対立する。視線の逃げ場は少ない。画面の隅へと流れる運動よりも、中央での衝突が優先される。この集中構造が、平面全体の圧を強化する。
同じく歴史的イメージを扱う画家と比較すると、この断定性はより鮮明になる。グレン・ブラウン(カツカレーカルチャリズム画家列伝99参照)は、古典的図像を参照しつつ、絵肌を錯覚的に再構築する。彼の色彩は緻密に調整され、筆触は現象として洗練される。画面は奥行きと光の微細な振動を帯び、視覚の体験へと向かう。それに対しソールの色は、視覚的快楽よりも衝突を優先する。洗練ではなく、対置である。
またジョージ・コンド(カツカレーカルチャリズム画家列伝86参照)は、分裂した主体を画面内部に配置する。複数の顔貌や視線が同居し、構図は内部で揺れる。ソールにはそのような心理的分裂はあまりない。彼は主題を裂くよりも、歪めて固定する。揺れよりも断定が先に立つ。
この違いは、単なるスタイルの差ではない。ソールは、混乱した世界をそのまま提示するのではなく、歪んだかたちで固定することで、混乱を可視化する。その固定が平面の圧となる。

混淆の構造
カツカレーカルチャリズムは、多文化性、境界横断性、余剰性、美味しさの肯定を軸とする理論である。異質な要素が同一平面上に置かれ、合理的に整理されないまま共存する状態を祝祭的に捉える。
ソールの画面は、この混淆の構造を極端な形で体現する。高文化と低文化、歴史画と漫画、政治的肖像とキャラクター。これらは階層化されず、同じ強度で画面に並置される。しかもその混合は滑らかではない。接合部は粗く、摩擦が残る。色面同士のぶつかり合いと同様、意味もまた衝突する。
余剰性も顕著である。モチーフは説明過多であり、象徴は過剰に誇張される。画面は整理よりも増殖を選ぶ。だがその増殖は無限に拡散するのではなく、強い構図によって押し留められる。ここにソールの特異性がある。混淆は祝祭的拡張へと向かうのではなく、平面の内部で圧縮される。過剰は拡散ではなく、凝縮となる。
この凝縮が、カツカレー的混淆に辛味を加える。混ぜることは喜びであると同時に、抵抗の手段にもなる。ソールにおいて混淆は無邪気ではない。むしろ批評の武器である。

断定という方法
ソールの断定的平面は、単なる強気の表現ではない。それは方法である。イメージが氾濫し、軽やかに消費される環境において、曖昧な提示はすぐに吸収される。だからこそ彼は、色を強くし、輪郭を明確にし、構図を単純化する。平面を硬化させることで、イメージを消費の流れから引き剥がす。
その結果、画面には緊張が生じる。色面は互いに退かず、形態は誇張されたまま固定される。観者は解釈より先に圧力を受け取る。この圧は、意味の深さというより、視覚的断定の強度から来る。言い切ることが、思考の余地を奪うのではなく、逆に思考を強制する。
ここで重要なのは、断定が単純化ではないという点である。彼の画面は複雑な要素を含みながら、それを整理しすぎない。ただし最終的には、平面としての統一を選ぶ。混乱を混乱のまま提示するのではなく、歪めて固定する。そこに批評性が宿る。

辛口のカツカレー
以上を踏まえると、ソールはカツカレーカルチャリズムと強く響き合う。ただしそれは、甘美な祝祭というより、辛味の効いた変種である。多文化性と境界横断性は徹底され、余剰は肯定される。しかし最終的に残るのは、幸福感よりも摩擦である。
彼の絵画は、混淆が必ずしも調和に至らないことを示す。異質なものは混ざり合いながらも、完全には溶け合わない。色面は衝突し、意味は過剰なまま固定される。その摩擦こそがエネルギーとなる。
カツカレーカルチャリズムが混淆の祝祭を理論化するならば、ソールはその臨界点を示す存在である。混ぜることは楽しい。しかし混ぜることは危険でもある。余剰は幸福を生むが、同時に毒も生む。ソールの平面は、その両義性を断定という形式で可視化する。
強く、騒々しく、露骨であること。それは単なる悪趣味ではない。色面の衝突と構図の集中が生む圧力は、混淆を単なる装飾に堕させないための装置である。そこにこそ、ソールの絵画的必然がある。



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