コラム7:論と情緒の配置 ― ミニマリズムともの派、そして現象学の現在地

アート

ミニマリズムともの派は、ともに表現の主体性や物語性を抑制し、「物がそこに在る」という事実を前景化させた運動である。しかし、その方法と志向は一致していない。両者の差異は、様式や素材の違いに還元できるものではなく、見るという出来事がどこから立ち上がるのか、すなわち論と情緒がどのような順序と距離で配置されているかにおいて顕在化する。

ミニマリズムは、作品を極限まで単純化することで、意味や感情の即時的な把握を不可能にした。滑らかで均質な表面、反復される幾何学的形態、作家の痕跡の排除。これらは鑑賞者に対して感情移入を促すのではなく、むしろそれを宙吊りにする。作品は何も語らず、何も示さない。ただ、そこに在る。その沈黙の前で、鑑賞者は「感じる」以前に、「見るとは何か」を意識せざるをえなくなる。情緒は最初から与えられるものではなく、知覚が自分自身の運動を反省する過程の中で、遅れて生成される。

このとき、見る者は受動的ではない。むしろ、つるりとした表面や意味を拒否する構造ゆえに、自ら能動的に見ようとしなければ、何も掴めない。ミニマリズムが引き出す能動性とは、感情の高揚ではなく、知覚の緊張である。それはしばしば、マイケル・フリードが批判した「劇場性」と表裏一体の関係にある。作品は自立しているはずなのに、鑑賞者の身体や時間を強く意識させてしまう。その矛盾が、ミニマリズムを理論的にも感覚的にも緊張した地点に置いた。

一方、もの派は、石や木、鉄といった具体的な物質を通して、見る以前の感覚に直接触れようとした。物の重さ、表面の荒さ、置かれ方によって生じる空間の歪み。そこでは、作品を理解する前に、すでに身体が反応してしまっている。鑑賞者は構えなくとも、物質の存在感が先に立ち上がり、感覚を揺さぶる。情緒は後から付与される効果ではなく、現象の入口そのものとして現れる。

この違いは、現象学的に言えば、意識が対象を構成する過程を前景化するか、それとも、対象が意識に侵入する瞬間を前景化するかの差異である。ミニマリズムは前者を選び、もの派は後者を選び取った。どちらも「見る」という経験を問い直しているが、その問いの立て方が異なっている。

この差異を照らす具体例として、ドナルド・ジャッドと李禹煥の仕事を挙げることができる。ただし、重要なのは、彼らをそれぞれの運動の代表として単純化しないことである。ここでは、現象がどのように成立しているかを示す、一つの視点として取り上げたい。

ジャッドの作品は、明確な形態と工業的な制作によって、作品を「表現」から切り離そうとした。箱型のユニットや反復構造は、感情を語らない代わりに、空間と身体の関係を鋭く意識させる。鑑賞者は、意味を解釈することよりも、距離や高さ、視点の移動といった条件に注意を向けざるをえない。ここで生じるのは感動というよりも、知覚が自分自身を意識する瞬間である。論的構造が先行し、その内部で情緒が遅れて立ち上がる。

出典:Artpedia/ドナルド・ジャッド

李禹煥の作品では、同じ「物」がまったく異なる仕方で現れる。石は石として、鉄板は鉄板として存在しながら、それらは互いに緊張関係を結び、空間に微妙な歪みを生じさせる。鑑賞者は、能動的に構えなくとも、物質の配置そのものによって感覚を呼び起こされる。理解は後から追いついてくるが、その前に、すでに「何かが起きている」。

出典:Artpedia/李禹煥

この二人の差異は、論と情緒のどちらを排除したかではなく、どちらを先に置いたかの違いである。ジャッドは論を先行させ、その内部で情緒が生まれる場を設計した。李は情緒的な感受の場を先に開き、そこに思考が入り込む余地を残した。いずれも現象学的だが、その重心は異なっている。

しかし、今日の状況において、こうした態度は新たな課題に直面している。私たちは、意識も環境も時間も排除できない世界に生きている。映像、インスタレーション、パフォーマンスが増殖し、作品は状況依存的で、否応なく劇場的にならざるをえない。見ることは、静かな対峙というより、流れの中で消費される経験へと傾きがちである。その中で、絵画はしばしば「弱い」メディウムに見える。

だが、このとき現象学的な見方は時代遅れになるどころか、むしろ切実な意味を帯びる。現象学とは、新しさを追う理論ではなく、経験がどのように成立しているかを繰り返し問い直す態度だからである。見ることが流れてしまう時代において、見ることそのものを遅らせ、立ち止まらせる試みは、なお重要である。

この文脈で、日本の現代絵画が示してきた態度は示唆的である。ここで言う日本の絵画とは、李禹煥的な緊張関係をそのまま継承するものではない。むしろ、関係性や意味を前面化せず、それらを造形の内部に沈ませる方向へと洗練させてきた態度である。その一例として、岡﨑乾二郎の仕事を挙げることができる。

出典:東京都現代美術館/岡﨑乾二郎

岡﨑の作品は、構造的にはきわめて理知的でありながら、鑑賞者に緊張を強いない。形態は複雑だが説明を要求せず、色は強いが感情を指示しない。そこでは、論が情緒を支配せず、情緒が論を崩さない。結果として生じるのは、反撥しないが迎合もしない、いわばクッションのような知覚の場である。鑑賞者は構えなくとも排除されず、かといって没入を強制されることもない。

ここでは時間もまた特異なあり方をとる。瞬間的な理解は起きないが、待たされている感覚もない。ただ、知覚が自分自身に沈むような、静かな時間が続く。この「時間の遅さ」は心理的な演出ではなく、論と情緒の配置によって自然に生じるものである。

希望があるとすれば、それは非劇場性を完全に回復することではない。制度や環境から自由になることは不可能である。重要なのは、劇場的であることを自覚した上で、なお作品が自立して在るように見える瞬間を、どこに、どのようにつくるかという問いである。論だけでも、情緒だけでも不十分であり、その配置を繊細に調整することが、今日の制作に求められている。

ミニマリズムともの派が示した二つの方向性 ― 見ることを能動化する構造と、感じることを先行させる場 ― は、いまも有効な参照点である。その緊張関係を引き受けながら、現象がどの地点から立ち上がるのかを再設計すること。そこに、これからの絵画や造形に開かれた、静かだが確かな可能性が宿っている。

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