コラム5:視覚体験の歴史的展開と現代性

アート

見るという行為の複層化が導く表現の未来

視覚の歴史展開――「見ること」は何を意味してきたのか

 私たちは生まれた瞬間から世界を「見る」。しかしこの行為は、歴史を通じて同じ意味を担ってきたわけではない。古代から現代に至るまで、視覚は宗教的象徴、科学的手段、主体の内面、制度的経験、さらにはネットワーク化された情報の流通形態として、多層的に再定義され続けてきた。視覚とは、感覚の単位ではなく、文化や思想の変化を映し出す鏡そのものなのである。

 古代の人々にとって視覚は、世界の奥に潜む秩序や真理に触れるための導きのようなものだった。プラトンの洞窟の比喩はその象徴である。人々が「見ている」と信じるものは影にすぎず、真理はその背後にあるという思想は、視覚が哲学的問いの根源に位置づけられていたことを示している。中世に入ると視覚は宗教的経験と結びつき、ステンドグラスが象徴するように「光」は神の存在の顕現とみなされた。色彩を観ることは祈りの行為に等しく、視覚は信仰の媒介装置として機能した。

 この状況はルネサンスによって大きく方向転換する。レオナルドの解剖学研究やアルベルティによる遠近法の理論化は、視覚を世界再現の技法へと変え、「正しく見る」という理念を人間の理性と結びつけた。ここで視覚は科学と芸術が交差する領域となり、再現の制度として整えられた。人間の視線は世界の中心として扱われ、世界は窓として提示される――こうした視覚モデルは、その後長く西洋文化の基底を成した。

 19世紀後半、視覚は再び転回点を迎える。デカルトによる感覚の不確かさへの懐疑や、カントの「主体の形式が世界を構成する」という見解は、視覚が単なる受容ではなく、主体の内的構造の反映だと理解される道を開いた。フロイトに至れば、視覚は夢や幻視を通じて無意識の欲望を示す領域とされ、「世界の窓」から「心の窓」へと重心が移動する。視覚は心理的・精神的次元を帯び、個別の主体性と深く絡み合った。

 20世紀初頭、美術の内部からは視覚を純化しようとする試みが生まれた。クライヴ・ベルやロジャー・フライが提唱した「有意味形態」論、グリーンバーグのフォーマリズムは、作品内部に成立する形態的秩序が観者の美的感情を喚起すると論じた。色、線、形、平面性といった要素への集中は、視覚の純度を極限まで研ぎ澄ませようとする態度であり、視覚そのものを作品の主題とする方向性を確立した。

 しかし同時に、フリードが指摘した身体性、クラウスが論じた制度性など、20世紀中盤以降には視覚を取り巻く外部条件への関心が高まる。「作品の前に立つ」という行為に含まれる身体の位置、時間の流れ、そして美術館という制度の枠組みが、視覚体験を規定するのだという理解は、視覚を純粋な内在的現象として扱う立場を揺るがした。視覚は文化的・社会的・制度的コンテクストの交差点として捉えられるようになる。

 21世紀に入り、この複層化は一挙に加速する。スマートフォン、SNS、VR、AI生成画像などのテクノロジーは、視覚を画面の前に固定された経験から解き放ち、同時に複数の画面へと拡散させた。人々は見るだけでなく撮影し、編集し、共有し、アルゴリズムに最適化されるかたちで視覚情報を流通させる。視覚とは「世界を受け取る行為」から、「世界を構築し、編集し、流通させる行為」へと変質したのである。

視覚の現代性――複雑化した世界で、私たちは何を「見ている」のか

 このような歴史的展開を経た現代において、視覚はもはや受動的行為ではない。SNS時代の視覚は、選択と判断を伴う能動的行為へと変わっている。どの写真を投稿するか、どの情報を見逃すか、自分の視覚経験をどのように編成するかといった行為は、すべて主体性の形成と密接に関係する。視覚とは、自ら世界の意味を取捨選択し、構築する能力である。

 現代の美術や映像表現もこうした視覚の変容と歩調を合わせ、もはや「何が見えるか」だけが問われているわけではない。「どう見せるか」「どの文脈で見せるか」という設計そのものが作品の核となる。リヒターの作品が提示する視覚的滑走や、ヒト・シュタイエルによる映像とテクノロジーの政治性の探究は、視覚が制度やアルゴリズム、社会構造と切り離せないことを示している。視覚は単一の知覚現象ではなく、背後の仕組みを含む広範なコンテクストの総体へと拡張されている。

 また、現代の視覚は身体との関係を再び密接にしつつある。VRやAR、没入型の展示空間では、身体の動きが視界を変化させ、触覚や空間感覚も視覚の一部となる。フリードが論じた視覚の身体性が、テクノロジーによって強化され、視覚は空間・時間・身体を巻き込む総合的経験として再構築されている。

 近年ではさらに、胎教や幼児期の感性形成との結びつきも指摘されている。初期の視覚刺激や環境が、美的感受性や注意力、感情処理能力など、のちの視覚体験の器そのものを形づくるという研究成果は、現代の複雑な視覚環境を受け取る能力が生育環境によって大きく左右されることを示している。視覚は生得的能力ではなく、文化的・身体的に育まれる学習の産物である。

 しかし、視覚の豊かさがそのまま解放を意味するわけではない。現代の視覚環境は、過剰なイメージ供給、注意の分断、フィルターバブル、アルゴリズムによる嗜好の誘導、即時的理解の横行といった問題を抱えている。視覚は豊穣であると同時に脆弱であり、操作されやすい。だからこそ歴史的な視覚モデルの積層を理解し、その構造を意識的に扱うことが求められている。

 古代の真理、中世の神秘、ルネサンスの科学的再現、近代の主体と無意識、20世紀の形式・身体・制度、そして21世紀の情報とテクノロジー。これらは断絶しているようでいて、「見る」という行為が常に再定義され続けるという一つの流れの上にある。現代の視覚は、こうした歴史的諸要素をすべて包含する多層的視覚であり、単一の理論ではとらえきれない複雑性を帯びている。この複雑性こそが同時期の表現を豊かにすると同時に、難しくもしている。

視覚体験の未来へ

 私たちは視覚の歴史の終着点に立っているのではなく、むしろ次なる段階への移行期にいる。AIやVRが生成する新しいイメージは、人間の制御を超え始めているが、それでも根本は変わらない。視覚とは歴史・文化・身体・社会・技術が交差する行為であり、その複層化した経験をどう扱うかによって、これからの表現の可能性が大きく左右される。視覚の歴史的連続性を理解することは、美術やデザインにとどまらず、人間の感性、認知、そして「世界をどう見るか」という根源的問題と接続している。視覚の未来を考えることは、人間の未来を考えることである。

あーとむーす画 アクリル B3

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