コラム2:純粋と余剰の哲学

アート

文化のごった煮 - プラトンから現代美術、日本文化まで

文化が立ち上がる「皿」としてのコーラ

私たちがカツカレーを思い浮かべるとき、まず視界に入るのは「皿」である。カツとカレーという異質な性格同士が、米とルウという異なる質感の要素が、ただそこに共存しているだけではなく、ひとつの食体験として立ち上がるためには、その混ざりを受け止める“場所”が必要になる。プラトンが《コーラ(χώρα)》と呼んだものは、この「混ざりの舞台」と驚くほどよく似ている。コーラは形を持たず、形を受け入れる。生成や変化の揺らぎを抱え込み、秩序と混沌の双方を宿す。空っぽでありながら満ちている、純粋よりも受容と変化の力を本質とする“第三の原理”である。

モダニズムは長く、世界から余計な要素をそぎ落とし、芸術を純粋にしようとした。しかし、純粋を追い詰めたその先に現れたのが、限界点で再びコーラの気配をまとったマレーヴィチである。《白の上の白》において、形は削ぎ落とされ、残るのは“何かが生まれる前の場所”としての白だ。それは空虚ではなく、可能性そのものが漂う余白であり、世界の胎内を思わせる。カツカレーカルチャリズム的に言えば、この「皿としての余白」こそ文化混成の基盤である。純粋や権威ではなく、異質なものの遭遇、偶然や混乱、余剰によってこそ文化はおいしく煮込みあがる。何を描くかではなく、どんな“皿”の上で要素が混ざり合うのか――美術とはその場づくりの問題である。

純粋性の欲望とその限界

しかし人はしばしば、混ざることよりも純粋さに安らぎを求める。透明で余計なもののない状態は、理性にとって心地よい。カントが『判断力批判』で美を「利害なき快」としたのは、対象を欲望や実用から切り離し、純粋に形や秩序のみを味わおうとする態度の肯定である。この発想は、近代以降の芸術に深く浸透した。音楽は言葉を捨て、絵画は物語を捨て、建築は装飾を捨て、美を“純度”という基準に委ねた。だが、その純化の衝動は、世界の混乱を恐れる心の裏返しでもあった。曖昧さを嫌い、境界を引き、他者の混入を避ける。しかし、その結果生まれた美はしばしば冷たく、生活の体験から遠ざかったものになる。

だが実際の創造とは、カレーを皿に盛るときのように、こぼし、混ぜ、調え、味見しながら進むものだ。人間は濁りの中で美を探す。現代美術が混成、雑多、越境といったテーマに向かうのは、純粋主義を乗り越えるためである。美はもはや清められた場所に宿るのではなく、濁りの中で突然光る瞬間に宿る。プラトンのコーラが示した「混ざりの場」は、現代において、文化そのものの動作原理を説明する概念となっている。

日本文化に根付く「混ざり」の力

この「混ざり」をめぐる感覚において、日本文化は特異な位置を占めている。日本人が混合に対して寛容であるのは、単なる国民性ではなく、文化の深層に由来する構造である。まず信仰の基層が多神教的であったことが大きい。山や川、動植物、道具、祖霊――あらゆるものに神が宿るとみなす世界では、異なる真理同士が出会っても排除の必要がない。神仏習合の歴史は、異質が衝突するのではなく、自然に重なり合っていく“場の論理”によって支えられている。異なる信仰体系が同じ空間に共存することは矛盾ではなく、豊かさであった。

また、日本は古来より外来文化を受け入れ、それを自文化に翻訳する力を持っていた。文字、仏教、技術、制度――それらは模倣ではなく、消化されて「和様」となる。外来のものを“和の味”に調合する方法が文化のエンジンとなった。こうした混成の力は、近代になってより鮮明になる。開国期には西洋からの新しい価値が一気に流れ込んだ。明治の和洋折衷建築や洋食文化は、異物を驚きと面白さとともに味わい、自分の皿で再編する試みの成果である。

そして敗戦後、日本はさらに大規模な混成を経験する。アメリカ文化、戦前の伝統、東洋思想、民俗、アニメ、資本主義が同時に再起動し、古いものと新しいものが並置され、互いを否定しきれないまま、ひとつの文化的場として存在した。この“並列性”こそが、戦後日本の創造性の起源であり、カツカレーカルチャリズムの精神そのものである。異物は脅威ではなく、新しい味の予兆だった。

文化を「煮込む」ための場としての世界

欧米における純粋性の理念は、理論的・形式的である。グリーンバーグのフォーマリズムのように、混成や余剰を排し、作品内部の整合性を重視する批評体系が成立した。これに対し、日本の純粋感覚は生活的である。掃除や入浴、祭祀や禊といった日常の行為は、穢れを祓い、整えるためのものであり、理念ではなく身体的実感に寄り添う。ここでは“混ざり”自体は問題ではなく、必要に応じて清めればよい。その柔らかな感性が、異文化の要素をためらいなく受け入れ、調整し、混ぜ合わせる文化的土壌をつくっている。

このように、プラトンのコーラ、モダニズムの行き止まり、カントの純粋性、日本文化の混成力は、それぞれが“場の味”をどうつくるかという問いにつながる。純粋な皿だけでは何も起こらないし、すべてが混沌では味が決まらない。しかし、皿の上で素材を重ね、煮込み、調味し、余白と濁りを適度に保ちながら混ぜ合わせたとき、世界は豊かでおいしいものとして立ち上がる。文化とは、ごった煮であることを恥じる必要のない営みなのだ。むしろ混ざりこそが、新しい光や味を生む源泉なのである。

あーとむーす画 アクリル F8

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