コラム12:とどめる力としての絵画 ― 流れすぎる世界と身体性

アート
あーとむーす画 アクリル B4

流れすぎる世界の中でとどめること ― AI時代の絵画と身体性

近代以降の表現を振り返ってみると、私たちはいつのまにか、作品が語り、主張し、意味を提示することに慣れてきたことに気づかされる。とりわけ二十世紀以降、芸術は自己批判や形式への懐疑を通じて、自らの正当性を問い続けてきた。その過程は、更新と刷新の歴史として語られることも多いが、一方で、何かが少しずつ置き去りにされてきた時間でもあったのではないだろうか。
現在、情報通信技術は極度に発達し、イメージや意味はかつてない速度と量で流通している。SNSやAI生成画像、VRといった環境の中で、私たちは常に多くの作品に触れながらも、それらを十分に把握しきれない感覚の中に置かれている。本稿は、そうした状況を前提にしながら、近代以降の表現史をあらためて辿り、自己批判、形式への懐疑、混成の一般化、沈黙への移行、そして身体性の再浮上という連なりの中で、今日の絵画や作品がどのような役割を引き受けつつあるのかを、静かに考えてみようとする試みである。

近代化と自己批判 ― 押し出される表現の倫理

近代化とは、単なる技術革新や制度変化ではなく、人間が世界を把握し直そうとする強い意志の表れであった。芸術の領域においても、表現は伝統や慣習から切り離され、自らの根拠を問い返す運動として進行した。自己批判的であること、形式を疑うこと、不純物を取り除くことは、美的判断であると同時に倫理的態度として機能した。浄化や還元は、啓蒙的理性が世界を透明化しようとする欲望の現れでもあり、自然な文化の流れというより、人為的に設定された正義の体系だったと言えるだろう。この時代、作品は世界に向かって「押し出される」ものだった。語り、主張し、更新することが、表現の使命とみなされていたのである。

混成の一般化と語りの疲労 ― 正義としての多弁の終焉

しかし二十世紀を通じて、戦争、植民地主義、移民、情報通信の発達がもたらしたのは、混成が例外ではなく前提条件になる世界だった。文化は否応なく交差し、単一性を保つことの方が困難になる。戦後以降、混成的な作家や表現は急増し、もはや特異な態度ではなく、一般的な生存様式となった。同時に、理論や批評、メディアによる語りは過剰に増殖し、意味はインフレを起こす。作品は常に説明され、位置づけられ、消費される。この状況において、さらに語ることは、もはや前進ではなく、ノイズや暴力にすらなり得る。ここで作家たちは、「押し出す」ことから距離を取り始める。

「押し出す」から「とどめる」へ ― 表現の力点の移動

時代が下るにつれ、作品は次第に、強い主張や明確なメッセージを前面に出さなくなる。ただ差し出され、何も言わないように見える作品が増えていく。この変化は、表現の衰退や主体の放棄ではない。むしろ、語りが過剰になった世界において、意味を確定させないこと、解釈を急がせないことを選び取る、高度に能動的な態度である。作品は何かを起こそうとするのではなく、起こりすぎてしまう世界の流れを、ほんの少しだけ「とどめる」場所になる。押し出す力が瞬発力だとすれば、とどめる力は持続力であり、後から効いてくる強度である。

把握不能な環境の中で ―  SNS・AI時代と絵画の位置

現在、SNSの拡散、VRやAIによる画像生成によって、私たちは因果関係を把握しきれない流れの中に置かれている。なぜこのイメージが現れたのか、誰が作ったのか、どこから来たのかは、次第に重要ではなくなっていく。今後、リテラシーは確実に洗練されるだろうが、それは理解が深まるというより、流せるようになる方向に進むはずだ。この環境で、絵画が新しさや意味生成で競うことは難しい。AIはすでに、それを無限に生産できる。だからこそ絵画は、速度から降りるための物体として、独自の役割を持ち始める。動かず、触れられず、そこに在り続けるという条件そのものが、流れすぎる世界に対する異質な存在感を放つ。

回収されないものとしての身体性 ― リアルの最後の拠点

意味やイメージが即座に生成され、満腹になる時代において、最後まで回収されないのが身体性である。距離感、スケール、重さ、時間、疲労といった要素は、情報化や最適化になじまない。今後、絵画が焦点化する身体性とは、身体を描いたり誇示したりすることではない。鑑賞者の身体が、勝手に巻き込まれてしまう状況をつくることにある。近づかないと見えない、見続けると疲れる、空間の温度や音が気になってくる。こうした身体の反応は、やり直しがきかず、一回性を帯びている。その操作不能性こそが、デジタル環境の中でリアルとして残る。

とどめる絵画の未来像 ― 流れすぎる世界に抗する遅延

今後の絵画や作品は、世界を導いたり、未来を示したり、正しさを語ったりはしないだろう。代わりに、意味を押し出さず、混成を誇示せず、更新性を説明しないまま、そこにとどまる。要約されず、タグ付けしにくく、説明しきれない理由や痕跡を抱えたまま存在する。その「よくわからなさ」は欠如ではなく、過剰に理解できてしまう時代に対する静かな抵抗である。絵画は、世界が流れすぎるのをほんの少しだけ遅らせる。その遅れの中で、鑑賞者の身体に沈殿する感覚こそが、これからの表現のリアリティになるだろう。

あーとむーす画 アクリル B3

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