
現代絵画をめぐる違和感は、特定の様式や作家に還元できるものではない。それはむしろ、絵画がどこに立っているのか、あるいは立つこと自体が可能なのか、という位置の問題として現れている。完成度は高く、表面は洗練され、あるいは逆に、物質性や身体性が過剰なほど前景化する展示も増えている。しかしそれらは、絵画の強度を示しているようでいて、同時に、どこか決定的な手応えを回避しているようにも見える。この曖昧さこそが、現在の絵画の「立ち位置」を考える出発点になる。
2000年前後、フィギュラティヴ絵画の完成度が一気に引き上げられ、筆触を消した滑らかな表面が広く共有された。そこでは、うまさや技術の誇示というよりも、完成していること自体が前提条件となった。完成度は到達点ではなく、出発点になったのである。この変化は、単なる写実回帰ではなく、写真やデジタルイメージが日常化した視覚環境のなかで、絵画が「高解像度の像」として振る舞わざるを得なくなった結果だった。ジェフ・クーンズの商業的成功や、村上隆による表面の徹底管理は、その価値転換を象徴的に可視化した。完成度とは、内面や倫理の証拠ではなく、流通に耐える表面の条件になったのである。
一方で近年、ヴァセリッツやキーファーに代表されるような、絵の具や素材が強く身体に訴えかける展示が目立つようになった。そこでは、重さ、荒さ、スケールといった物質的要素が、デジタル環境への対抗として機能しているかのように見える。だが、この物質性の回復は、必ずしも批評的抵抗とは一致しない。むしろそれは、画像では代替できない経験として安全に消費され、市場価値を保証する装置として機能している側面も持つ。完成度の高い表面も、過剰な物質性も、ともに「一目で効く」効果として回収されうる点で、同じ地平に置かれている。
この状況を倫理の問題として鋭く言語化したのが、ヒト・シュタイエルである。彼女が提示した「貧しいイメージ(poor image)」は、しばしば解像度の低下や劣化した映像の比喩として理解されがちだが、その核心は技術的品質の問題にはない。彼女が問うているのは、どのイメージが高解像度として保存され、どのイメージが圧縮され、コピーされ、劣化したまま流通させられるのかという、可視性と価値の分配構造である。そこでは、画質や完成度は中立的な美学的選択ではなく、誰が制作し、誰がアクセスし、誰が所有し、誰が消費するのかという社会的条件と不可分に結びついている。重要なのは、シュタイエルが倫理的な主題や正義を「描く」ことを求めたのではなく、イメージが置かれる条件そのものが、すでに倫理的判断を内包してしまっていることを示した点にある。イメージは善悪を語らなくとも、どの解像度で、どの速度で、どの文脈に配置されるかによって、不可避的に政治性と倫理性を帯びる。この視点から見れば、現在の絵画はもはやデジタル批評の外部には存在せず、完成度を高めることも、物質性を強調することも、それ自体が「どの価値体系に与するのか」という判断を伴っている。絵画は沈黙していても、条件の選択を通じて、すでに発言してしまっているのである。
しかし、このような倫理は、従来の意味での批評や主張としては、ほとんど可視化されない。なぜなら、倫理を明確な立場や態度として語った瞬間、それは容易にスタイル化され、ブランド化され、市場や制度のなかで消費可能な記号へと変換されてしまうからである。環境、ジェンダー、ポストコロニアル、デジタル批評といった語彙が、正しさの保証として機能し始めたとき、倫理は問いではなく、選択可能なオプションになってしまう。こうした状況を十分に自覚している現在、多くのキュレーターや作家が共有しているのは、明文化された理論やスローガンではなく、「強く言わない」「結論を出さない」「決着をつけない」という、実務的で感覚的な判断である。展示は説明を最小限にとどめ、作品は意図を過剰に語らず、方向性や評価軸を意図的にぼかしたまま提示される。そのため外から見ると、それらは地味で弱く、政治性も批評性も欠いているように映る。しかし実際には、この不可視性こそが、倫理が回収されずにとどまるための、ほとんど唯一の居場所になっている。声高に主張しないこと、態度を固定しないこと、意味を確定させないこと ― それらは無責任さではなく、倫理が即座に消費されてしまう環境に対する、きわめて慎重で切実な応答なのである。
この立ち位置を歴史的に振り返ると、ブルース・ナウマンの存在が決定的であることがわかる。ナウマンは、作品の形式ではなく、アートが成立してしまう条件そのものを露出させた。以後の制作は、その条件を背負いながら行われてきた。2000年前後には、成立条件に加えて、成功や流通の条件が重くのしかかるようになった。そして現在は、どの態度をとっても即座に回収されてしまうという、逃げ場のなさそのものが背負われている。この多重化した条件のなかで、宙づりは消極的な選択ではなく、最も誠実な応答として現れる。
ここで、カツカレーカルチャリズムの視点が有効になる。カツカレーは、純粋性や正統性を主張する料理ではない。カレーとカツという異なる文脈のものを並置し、混成したまま成立する。その価値は、どちらかに回収されることなく、同時に存在する点にある。この並置的価値のモデルは、現在の絵画の立ち位置を考える上で示唆的である。完成度と未完性、物質性とイメージ性、倫理と無関心が、どれか一方に統合されるのではなく、互いに緊張関係を保ったまま共存する。その状態自体が、意味を生む。
宙づりの絵画は、倫理的であるように見えない。社会的正しさを主張せず、強い情動も提供しない。しかしそれは、倫理を放棄しているのではなく、倫理が即座に消費される状況に対する抵抗として、条件を不安定化させている。カツカレーカルチャリズム的に言えば、それは「どちらもあるが、どちらにも決めない」態度である。純粋性を拒否し、混成を祝福するが、その祝福さえも固定化しない。
現在の絵画の立ち位置は、どこかに立っているというより、複数の条件のあいだに吊るされている。その宙づりの状態は、不安定で、評価されにくく、消耗も激しい。しかし同時に、それは、完成や強度や倫理がすぐに回収されてしまう時代において、なお思考と感覚を持続させるための、数少ない場所でもある。絵画はそこで、声高に何かを主張するのではなく、並置されたまま、沈黙と緊張を保ち続けている。



コメント