身体が跳ねる場所 ― ブルックナー交響曲第6番と「食欲」の問題

音楽

アントン・ブルックナーはしばしば「霊性の作曲家」として語られる。とりわけ交響曲第4番、第7番、第8番は、聖堂的な響き、神への憧憬、時間の停止といった修飾語とともに受容されてきた。これらの作品は、巨大な構造と持続する和声によって、聴き手を日常から切り離し、超越的な空間へと導く。その意味で第4番は、ブルックナー像を代表する入口として機能してきたと言えるだろう。

しかし、交響曲第6番はこのイメージにうまく収まらない。聴いた瞬間に感じられるのは、沈潜や恍惚ではなく、むしろ「跳ねる」ような感覚である。音楽は地に根を下ろすというより、何度も水面を蹴って前に進む。ブルックナー的霊性が重力を帯びる以前の、奇妙な軽さと推進力が支配している。

この違和感は、作品の構造的特徴だけでは説明しきれない。むしろ第6番は、ブルックナーという作曲家の内部にある「緊張関係」が、隠蔽されずに露出した瞬間として捉えるべきではないだろうか。

交響曲第5番は、その前段として重要である。第5番においてブルックナーは、対位法的処理、厳密な主題操作、終楽章での巨大な総合といった、いわば理知的作曲方法を徹底的にやり切っている。そこには迷いがなく、「正しく書かれた音楽」という自己像が完成している。信仰や感情は存在するが、それらはまず構造に従属している。

この意味で第5番は、方法としてのブルックナーが一度閉じた作品である。これ以上このやり方を深化させても、質的な更新は起こりにくい地点に到達している。

そこから第6番へと進むと、音楽の駆動原理が明らかに変化する。論理的展開よりも反復的なリズム、和声の沈潜よりも前方への推進が前面に出る。とりわけ付点を含む特徴的なリズムは、聴き手に身体的な反応を強く促す。これは祈る身体ではなく、進む身体の音楽である。

ここで重要なのは、この身体性を単なる「世俗化」と捉えないことである。第6番は市井的な娯楽音楽でもなければ、軽薄な迎合でもない。むしろ、ブルックナー自身の生活身体が、作曲法の前に出てきてしまった、と言ったほうが近い。

伝記を読むと、ブルックナーの実像は、禁欲的な修道士とはかなり異なる。彼はウインナーや肉の煮込みを好み、ビールを飲み、素朴で食欲旺盛な人物だった。敬虔であることと、俗っぽい生活感覚は、彼の中で矛盾なく同居していた。

しかし作品においては、その俗っぽさは長らく覆い隠されてきた。第5番や第7番の音楽は、いわば「精進料理」のように整えられている。脂肪分がそぎ落とされ、後世が安心して「霊性」「崇高さ」と名付けられる形式を備えている。こうした作品は、作曲家像と作品像のズレを巧みに中和してきた。

第6番は、その中和がうまくいかなかった例外である。理知、霊性、身体性が分離されないまま、同じ皿に盛られてしまった。その状態は、あえて言えば「カツカレー」に近い。精進料理的な形式の中に、揚げ物の欲望がそのまま載っている。だからこそ、崇高でありながら軽く、厳粛でありながら跳ねる。

この「食欲の露出」は、後の作品にも別の形で現れる。交響曲第9番のスケルツォは、第6番と同様に強烈なリズムに支配されているが、その性格は大きく異なる。第6番のリズムが自由な推進であったのに対し、第9番のそれは逃げ場のない強制運動である。身体が音楽を動かすのではなく、音楽が身体を拘束する。ここでは、肉の重さが快楽ではなく必然として現れている。

こうして見ると、ブルックナーの交響曲は単なる霊性の物語ではなく、理知・身体・時間の配置が変化していく過程として捉え直すことができる。第5番で方法を詰め切り、第6番で身体が前に出て、第7番で再び巨大な祈りが立ち上がる。その祈りは、第4番のそれとは異なり、一度身体を経由した後の霊性である。

交響曲第6番が「異質」に聞こえるのは、それが失敗作だからではない。むしろ、ブルックナーという作曲家の生活感覚と作曲家像との緊張が、もっとも正直に現れているからである。精進料理として神話化される前の、カツカレー的ブルックナー。そこには、霊性と食欲、理知と身体が未整理のまま共存する、きわめて人間的な時間が刻まれている。

そしてその跳ねるリズムは、巨大な聖堂の基礎ではなく、水中で何度も蹴られた身体の感触として、今なお聴き手に残り続ける。

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