アンビエント系ジャズの音の煮込み
18世紀のライプツィヒ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、ある依頼を受けていた。皇帝ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルクのために、眠れぬ夜に聴く音楽を作るというものだ。ここでまず、後のジャズ史に意図せずして影響を及ぼすことになる「眠り」というテーマが現れる。《ゴルトベルク変奏曲》は単なる作曲依頼ではなく、秩序と自由、規則と遊びを同時に満たす挑戦であった。
アリアは揺るぎない基盤として立ち、変奏は無限に異なる表情を織り込み、聴き手を夢と眠りの境界をさまようような輪の中に誘う。この循環構造と漂う時間感覚は、後にモード・ジャズやアンビエント的音楽に受け継がれる原型である。
アリアが前後に立ち、変奏が踊ることで、聴く者は音の中を漂い、夢の中で迷子になりながらも安心感のある回遊を体験する。旋律は泡のように浮かび、消え、また浮かぶ。バッハは秩序ある構造を通して、音楽に「浮遊」と「円環」の感覚を同時にもたらすことに成功したのである。
ここにすでに、
・眠り(睡魔と覚醒のあわいの時間)
・浮遊(重力を失ったような音の漂い)
・円環(始まりと終わりが連続する構造)
という後世のミュージシャンたちが追体験することになる概念が、結晶化している。

《Kind of Blue》 ― モードの誕生と即興の漂い
1959年、アメリカ。マイルス・デイヴィスは《Kind of Blue》というアルバムを生み出す。モード・ジャズという名称は後に付けられたが、マイルスは和声の制約を最小限にし、旋律の自由度を最大化する構想を描いていた。
ここでマイルスは、急速なコード進行から解放された結果として「浮遊感」を偶然にも強く引き寄せることになる。
決して「眠りのための音楽」を意図していたわけではないが、音の滞空時間が伸び、旋律がゆっくりと空気中を漂うことで、聴き手に半覚醒の夢のような聴取モードを開いたのは確かだ。これは《ゴルトベルク》のアリアに宿る「夜」と「眠り」の感覚と、思いがけない共鳴を生む。
社会的背景も大きい。1950年代末、アメリカの都市文化は急速に多様化し、レコード、ラジオ、クラブ、サロンのネットワークを通じて異文化の音楽が混ざり合っていた。黒人音楽は白人市場に流入し、映画音楽やクラシック的な即興の手法も影響を与えた。マイルスはこの時代の混成感覚を吸収し、即興が制約されない自由空間としてのモードを生み出したのである。
演奏者たちの関係も重要である。ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス、キャノンボール・アダレイらは、コード進行の枠を越え、旋律の自由なやり取りを模索していた。マイルスは彼らに、旋律とリズムの自由な対話を許す場を提供した。演奏者は互いに音を浴び、応答し、重なり合うことで、音が漂う空間を作り上げた。結果として、音は湯気を立てるスープの泡のように軽やかに揺れ、リズムは風のように漂う。聴き手はその中で時間という液体の中をゆらゆらと回遊する「浮遊」体験を得る。
アルバムジャケットのヴィジュアルも象徴的である。《Kind of Blue》のジャケットでは、マイルスはやや下を向き、トランペットを吹くアップの構図で黒バックに浮かんでいる。この姿勢は、深い思索の中で音の可能性を探り、旋律の自由を見据えているかのように感じられる。もちろん当時、マイルスや写真家にそんな意図はなかったかもしれないが、内向的な「沈潜」と「眠りの前段階」のような静けさがここに表象されている。
こうして《Kind of Blue》は、バッハが先に提示していた
・浮遊
・半睡眠の感覚
・構造からの解放
といった要素を、ジャズという形式で再現することになった。
《In a Silent Way》 ― 構造化された漂いと透明な煮込み
1969年、マイルスは《In a Silent Way》で、漂う時間をより意識的に「円環」として構築する挑戦を行った。冒頭のテーマがアルバム全体を包み込み、最後に再び現れることで、漂う音の空間に明確な輪の形を与えている。この円環構造は、バッハのゴルトベルク変奏曲と通じる発想である。
ただしここで重要なのは、
《Kind of Blue》では偶然のように現れた「浮遊」や「眠りの境界」が、
《In a Silent Way》では意図的に設計された音響構造として現れている点である。
電子楽器の導入や持続音の多用によって、音の滞留時間はさらに伸び、醒めているのにどこか夢の中にいるような「静かな覚醒状態」が保たれていく。これはまさに、ゴルトベルク変奏曲のアリアが生み出す夜の静けさと同種の質感である。
ここで重要な役割を果たしたのがプロデューサー兼編曲者のテオ・マセロである。マセロは、現場で即興的に生まれる音の断片を、アルバム全体の構造に収める「折りたたみ」の技法を駆使した。ジョー・ザヴィヌルのオルガンやジョン・マクラフリンのギターの即興フレーズを、曲の冒頭テーマや中間の浮遊空間に自然に配置し、聴き手が音の中で回遊できるように計算している。リズム隊のトニー・ウィリアムスやデイヴ・ホランドは液体のように揺らぐビートを生み、音楽全体に浮遊感をもたらした。
結果として《In a Silent Way》は、
・《Kind of Blue》で獲得した浮遊
・バッハ以来の円環構造
・ゴルトベルク的な「夜/眠り」の気配をすべて束ね、音の宇宙を環のように閉じていく作品となった。
アルバムジャケットもまた象徴的である。マイルスは斜め上を見上げ、黒バックに浮かぶ少し引きの構図で写されている。目線が上方へ抜けることで、眠りを超えた「静かな目覚め」、あるいは「夢の外側に出ようとする瞬間」を思わせる。

漂う時間の煮込み ― バッハからマイルスへ
ここまでを俯瞰すると、バッハの《ゴルトベルク》、マイルスの《Kind of Blue》《In a Silent Way》を通して一つの連続的な螺旋が見えてくる。
- 眠り――バッハが夜の聴取を想定し、マイルスは偶然そこに近づき、最後には意図的に「静かな夢のような覚醒」へ踏み込む。
- 浮遊――アリア→モード→電子的持続音へと進化し、音は地上から切り離されてゆく。
- 円環――アリアとダ・カーポ構造→《Kind of Blue》の反復的モード→《In a Silent Way》の意図的円環構成へと深化する。
つまり、マイルスは結果的に、バッハが開いた「眠り」「浮遊」「円環」の三位一体の構造を、ジャズの語法で再発見し、再構築し、拡張したのである。
作曲家・演奏者・プロデューサー・聴き手が共同で音の層を味わうことで、音楽は巨大なカツカレーのように多層的に煮込まれる。漂う時間の煮込みは、ジャンルや時代を超え、聴く者に多層的な幸福感を届ける。音楽は耳で聴くだけでなく、舌で味わい、体で漂う宇宙的体験となる。
バッハのゴルトベルク変奏曲のアリアが描く輪の構造は、モード・ジャズの漂う空間に溶け込み、マイルスは音と時間を煮込み、浮遊させ、回遊させることで、聴き手を幸福な浮遊の世界に誘う。音楽はここで、料理であり、夢であり、宇宙そのものとなるのである。



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