江戸後期 ― 視覚の拡張
江戸中期、伊藤若冲と曾我蕭白は、それぞれ異なる方法で想像力を爆発させた。
若冲は自然の観察を極限まで深め、画面の内部に生命の宇宙を作った。蕭白は奔放な筆致で既存の美の秩序を揺さぶり、視覚そのものに衝撃を与えた。
だが江戸の視覚文化は、ここで終わらない。むしろこのあと、さらに大きく拡張していく。
十八世紀後半から十九世紀にかけて、日本には新しい知識が流れ込みはじめる。長崎のオランダ商館を通じて伝わった西洋の学問――蘭学、博物学、医学、地理学、天文学である。

杉田玄白や前野良沢が翻訳した解体新書は人体解剖の知識を日本に紹介し、博物学者たちは動植物を分類し観察する新しい視点を広めた。世界は神話や伝統だけでなく、観察と記録によって理解できる対象としても捉えられ始める。こうした科学的なまなざしは、画家たちの視覚にも静かに影響を与えていった。

同時に、この知識の広がりを支えていたのが江戸社会の都市文化である。十八世紀末には江戸の人口はおよそ百万に達し、当時の世界でも最大級の都市の一つだった。町人文化は成熟し、寺子屋による教育も広く普及していた。識字率は男性で五〇〜六〇%ほど、女性でも二〇%前後に達していたと推定され、都市部ではさらに高かったとも言われる。当時のヨーロッパでもここまで高い水準は珍しく、日本社会の教育水準は世界的に見てもかなり高かった。

さらに重要なのは、この識字率の高さが出版文化の爆発を生み出していたことである。江戸では貸本屋が街中に広がり、読本、黄表紙、洒落本、瓦版、絵本など多様な印刷物が流通していた。浮世絵もまたその出版文化の一部であり、版元・絵師・彫師・摺師が分業する印刷メディアだった。絵は一点ものの芸術作品というよりも、都市の人々が手に取り楽しむ視覚情報の媒体として広く共有されていたのである。

また江戸の都市は、当時の世界でも特異なほど循環型の社会でもあった。紙や布、木材、灰などは徹底して回収され再利用され、陶器などを除けば多くのものが再び資源として使われた。人や家畜の糞尿さえ農村に運ばれ肥料として利用される。こうした都市の循環は街を比較的清潔に保ち、同時に商業や流通を発達させた。江戸は巨大でありながら、密度の高い生活と情報が行き交う都市だったのである。

こうした都市環境の中で、絵画は単なる装飾ではなく、知識や観察、遊びや風刺を含む視覚のメディアとなっていく。観る側もまた、絵の細部に仕込まれた意味や遊びを読み取り楽しむ教養を持っていた。江戸は、文字と図像が日常的に流通する視覚情報の都市でもあった。
その結果、江戸後期の絵画は、伝統的な日本画、民衆文化、西洋の知識、科学的観察などが入り混じる巨大な視覚の実験場になっていく。
この時代を象徴するのが、四人の個性の強い画家たちである。
まず、世界そのものをダイナミックに描き出した 葛飾北斎。

つぎに、西洋科学と東洋画の融合を試みた知識人画家 渡辺崋山。

大衆文化と遊び心を大胆に画面に取り入れ、武者絵や戯画、妖怪や猫などを自在に組み合わせた 歌川国芳。

トッピングがどんどん増えるカツカレーのように、画面には予測不能で楽しい世界が広がった。
そして幕末から明治の混乱の中で、奇想と風刺を爆発させた 河鍋暁斎。

彼らの作品には共通する特徴がある。
それは、見ることそのものを拡張しようとする意志である。
自然、科学、風刺、幻想、民衆文化。
異なる視覚の要素が一枚の画面に同居する。
いわば江戸後期の絵画は、「視覚のカツカレー」とも言える状態になっていく。具材は増え、味は複雑になり、画面はますます自由になる。
その最初の巨大な一皿を作ったのが、葛飾北斎である。
PSコラム 江戸の出版都市と神保町
江戸の視覚文化を支えていたものの一つが、巨大な出版ネットワークである。浮世絵は一点ものの絵画ではなく、版元、彫師、摺師、絵師が関わる印刷メディアとして生産されていた。つまり江戸の絵画文化は、すでに出版文化と深く結びついていたのである。
江戸では日本橋や神田周辺に版元が集まり、読本や黄表紙、洒落本、瓦版、絵本など多様な印刷物が流通していた。貸本屋も町中に存在し、本は庶民の日常的な娯楽であり知識の媒体でもあった。高い識字率と都市の人口密度が、この出版文化を支えていた。
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このとき浮世絵は単なる美術作品というより、むしろ情報を拡散するメディアとして機能していた。人気役者の姿、流行の遊郭、話題の出来事、風刺や戯画――そうしたイメージは版画として大量に刷られ、都市の中を素早く広がっていった。現代の感覚で言えば、浮世絵や瓦版はどこかSNSに近い役割を果たしていたとも言えるだろう。
この「本と情報の都市」としての性格は、明治以降も形を変えながら受け継がれていく。近代になると、神田一帯には大学が集まり始めた。
たとえば明治大学、中央大学、日本大学、専修大学などである。学生たちが教科書や専門書を求めるようになると、それを扱う書店が増え、やがて古書店が集まる街が形成されていく。

こうして生まれたのが、世界的にも珍しい本の街、神田神保町である。
考えてみれば、浮世絵もまた「出版された絵画」であった。葛飾北斎の作品も、まさにその出版文化の中で生まれ、広く人々の手に渡ったのである。
江戸の街を流れていた情報と図像のエネルギーは、かたちを変えながら、今もどこかで続いているのかもしれない。

そして、そういえば神保町にはもう一つの顔がある。本の街として知られる一方で、実はカレーの名店が集まる場所としても有名なのだ。欧風カレーの名店として知られる ボンディ 神保町本店、刺激的なスパイスのカレーで人気の エチオピア 本店、そして学生たちに長く愛されてきたカツカレーの名店 キッチン南海 神保町店 など、街を歩けば自然とカレーの香りに出会う。最近訪れて感動したのは タケウチ神保町本店。

古書店で本を探し、思想や物語の断片を拾い集め、歩き疲れたころにカレー屋へ入る。そこで皿の上に現れるのは、スパイスと肉と米が重なり合う、あの混成の料理である。考えてみれば、本と情報が渦巻く街の中心に、カツカレーのような混ざり合う食べ物があるというのも、どこか象徴的ではないだろうか。

江戸の浮世絵が出版文化の中で生まれ、都市の中を流通したように、神保町の街でもまた、本や思想や物語が人から人へと渡っていく。そしてその合間に、ふとカツカレーを食べる。そんな小さな都市の風景の中にも、文化が混ざり合いながら生き続けていく力が、ひそかに息づいているのかもしれない。
神保町は、カツカレーカルチャリズムの首都である・・・であったらいいなぁ・・・と思う。


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