ホックニー ― 境界を軽やかに飛び越えるカツカレー的視覚
ポップの時代に現れた、異質な絵描き
デイヴィッド・ホックニーが登場したのは、まさにポップ・アートが美術の中心を占めつつあった時代である。ウォーホルやリキテンシュタインが、既存のイメージや複製技術を用いて「描かないこと」を戦略として前景化させていくなかで、ホックニーは同時代にいながら、その中心には決して居座らなかった。色彩の明快さやモチーフの軽やかさにおいては確かにポップ的でありながら、彼の関心は一貫して「絵を描く」という行為そのものに向けられていた。

初期の人物画に見られるのは、心理描写や物語性よりも、見る/見られるという関係の緊張感である。人物は感情の容器ではなく、存在の輪郭を確かめるための装置のように画面に配置されている。そこには、同性愛者としての自己認識や、他者の視線にさらされる身体への自覚が透けて見えるが、それ以上に強く感じられるのは、絵画という形式そのものを信じ続けようとする態度である。
ポップ・アートがイメージの流通や消費を主題化していったのに対し、ホックニーは、あくまで人間が世界をどのように見ているのかという、きわめて古典的な問いに留まり続けた。その意味で彼は、時代に乗り遅れたのではなく、最初から別の方向を向いていた作家だったと言える。
人物から風景へ ― 人間の不在と痕跡
ホックニーの作品を時系列で追うと、初期には人物が多く描かれていたにもかかわらず、やがてプールや庭、風景が画面の主役になっていくことに気づく。この変化は、単にモチーフの関心が移ったというよりも、人間を描く方法そのものの更新として理解したほうがよい。
ロサンゼルス時代に描かれたプールの連作では、人物が画面から消えている場合が多い。しかし、そこには常に人の気配がある。水面の揺らぎ、飛び込みの直後に残された波紋、整えられた庭と住宅の配置。いずれも人間の行為を前提としなければ成立しない風景である。ホックニーはここで、人物を描かずに人間の存在を描く方法を獲得した。


この視線はさらに進み、英国の田園風景や一本道の連作へとつながっていく。そこでは人物は完全に姿を消すが、代わりに観者自身が風景の内部に入り込むような構造が作られる。一点透視図法による安定した視点は解体され、複数の視点や時間が重ね合わされる。人間は描かれる対象ではなく、「見る行為」そのものとして画面に埋め込まれていくのである。
ジョイナーとiPad ― 時間を抱え込む画面
ホックニーのフォト・コラージュ《ジョイナー》は、彼の視覚哲学を最も端的に示す仕事のひとつである。複数の写真を貼り合わせ、ずれや継ぎ目を隠さず提示するその画面は、均質な一枚絵ではなく、断片の集合体として呼吸している。単一視点がもたらす「一瞬の真実」に対し、人間の見ることは本来、時間と移動、視線の揺らぎによって成り立っているのだという主張が、きわめて視覚的に示されている。


この問題意識は、近年のiPadドローイングにおいて、さらに決定的な形を取る。iPad作品の特徴は、完成した一枚だけでなく、描き始めから完成に至るまでのプロセスが動画として提示される点にある。そこでは最初の一線、ためらい、塗り直し、判断の更新といったすべての過程が肯定される。完成とは、結果ではなく、時間の仮の切断点にすぎない。
映像作品として《四季》などを手がけてきたホックニーだが、iPad作品が扱っているのは自然の循環的な時間ではなく、人間の思考と手の動きが生む歪んだ時間である。この制作時間の可視化は、編集された映像や最適化された結果だけが流通する現代において、きわめてリアルな感触をもって迫ってくる。

最後の本気の絵描きとして
油彩から写真、舞台美術、デジタルまで、ホックニーの技法は拡散し続けている。その自由さは「なんでもあり」に見えるかもしれない。しかし、その中心にあるのは一貫して、線と色、そして見ることへの信頼である。iPadを用いても、彼は撮るのではなく、描く。デジタルであっても、絵画であることをやめない。
この姿勢は、絵画がもはや自明ではなくなった時代において、きわめて勇気のいる選択だった。理論やコンセプトへと重心を移すこともできたはずの同時代にあって、ホックニーは「絵を描く」ことを恥じなかった。むしろ、遠近法の歴史を掘り下げ、写真を疑い、映像を内部化しながら、更新されたかたちで絵画を引き受け続けた。
カツカレーカルチャリズム的に捉えるなら、ホックニーは異なる文化、時間、技法、視覚体験を軽やかに一皿に盛る料理人である。異質な要素を排除するのではなく、そのまま抱き合わせ、新しい快楽と問いを生み出す。その皿は軽やかでありながら、決して薄味ではない。
ホックニーは、ポップの時代に現れた「最後の本気の絵描き」だったのかもしれない。絵画を信じることを最後まで手放さず、同時に疑い続けたその態度は、今なお、描くことの意味を静かに問い返している。




コメント