考える前に美味しい ― トム・ウェッセルマン、欲望直結のポップとカツカレーカルチャリズム

トム・ウェッセルマンは、ポップ・アートの作家群のなかでも、最も「ど真ん中」に立ちながら、その中心性をほとんど無反省に引き受けた画家である。ウォーホルやリキテンシュタインが、複製やメディア、アイロニーによって距離を確保しつつポップを成立させたのに対し、ウェッセルマンの絵画は驚くほどリテラルで、意味を読み取る以前に視覚が反応してしまう構造をもっている。《Great American Nude》や静物画に現れる唇、歯、乳房、果物、タバコ、星条旗といったモチーフは、象徴や批評を経由する前に、生理的な快や安心感、欲望の回路に直接触れてくる。そこには洗練された記号操作というより、動物的な嗅覚に近い感覚が働いているように見える。抽象表現主義が内面性や崇高さ、深度を絵画に託したのに対し、ウェッセルマンはそれらをほとんど剥ぎ取り、輪郭、色彩、表面の快楽へと徹底的に舵を切った。その結果、彼の絵画は「考える」前に「感じてしまう」視覚装置として成立し、ポップ・アートのなかでも際立って無防備で、同時に強度の高い表現となった。

この即物的な快楽性は、日本において語られるGHQのいわゆる三S政策を想起させる。ただしここで重要なのは、それを統治の陰謀としてではなく、人間の注意と欲望がどのように短絡されうるかという設計の問題として捉えることだろう。ウェッセルマンの画面は、思想や批評を弱めるために操作されているのではなく、そもそもそれらを必要としない地点に快を配置している。スクリーンや娯楽が思考を迂回して身体に届くように、彼の絵画もまた、判断や拒否が生じる前に視覚的な満足を与えてしまう。その点で彼は、欲望を管理する側ではなく、欲望と共犯関係にある作家だと言える。そこには告発も皮肉もほとんどなく、「そう感じてしまう身体」が前提として肯定されている。この態度は、カツカレーカルチャリズムという視点から見ると、より明確になる。カレーとトンカツという異なる文脈の料理を、由来や純度を問わず一皿に盛り、「一緒に食べたら美味しい」という実感を最優先するカツカレーの論理と同様に、ウェッセルマンの画面もまた、高尚と低俗、芸術と消費、家庭的安心感とエロティシズムといった要素を、調停や批評なしに共存させている。その雑多さは妥協ではなく、視覚的な満腹感として肯定され、見る者は意味を吟味する前に快楽を受け取ってしまう。
この性格は、同時代のアレックス・カッツとの比較によって、いっそう際立つ。カッツの絵画には、常に節度ある距離の取り方が存在している。大きく切り取られた顔や平坦な色面は、決して踏み込みすぎず、見ることは許されていても触れることは禁じられているという暗黙のルールが保たれている。そこには育ちのよさや社交的訓練を思わせる品格が漂い、素材は選別され、盛り付けられ、余白が残されている。一方、ウェッセルマンにはその節度がほとんどない。身体は切断され、拡大され、画面いっぱいに押し出され、距離は限りなくゼロに近づく。そこにあるのは上品さではなく、馴染み深さであり、洗練ではなく俗っぽさである。ただしそれは下品さではなく、中流アメリカ的な快楽倫理の率直さに根ざしている。カッツの軽さが育ちのよさに保証された抑制の軽さだとすれば、ウェッセルマンの軽さは、意味や品位を一度すべて脱ぎ捨てたあとの軽さである。管理と編集が高度化した現代において、この露骨な俗っぽさは、かえって古風で、生々しく、危険なものとして立ち現れる。ウェッセルマンの絵画は、欲望がまだ身体の側にあった時代の、あまりにも正直な記録なのである。



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