未決の身体としてのジャスパー・ジョーンズ

記号の時代に絵を描くということ
ジャスパー・ジョーンズが登場した1950年代半ばのアメリカ美術は、抽象表現主義という巨大な山脈に覆われていた。そこでは絵画は内面の真実を賭けた行為であり、筆触は存在の痕跡、画面は主体のスケールそのものとみなされていた。描くことは告白であり、選択は倫理的決断であり、制作は英雄的行為であったと言ってよい。そのような状況のなかで、ジョーンズは旗、数字、的、アルファベットといった、あまりにも既知で、意味が制度化されたモチーフを描き始める。これらは新奇でも私的でもなく、むしろ誰もがすでに知っているものだった。
しかし重要なのは、彼がそれらを社会批評や風刺の道具として用いたわけではないという点である。国旗は政治的スローガンに還元されず、数字は情報や記号論へと回収されない。むしろ、それらは「意味を知っているはずのものを、改めて見てしまう」という奇妙な状態を生み出す。ジョーンズは、意味が決まりきった記号を絵画の内部に持ち込みながら、その意味が機能しなくなる瞬間を静かに固定した。そこでは「何を描いたか」よりも、「なぜ描いてしまうのか」という問いの方が前景化する。

抽象表現主義の内部で身体を冷却する
ジョーンズの作品がしばしば抽象表現主義的に見えるのは、決して偶然ではない。彼はその運動を外側から否定したのではなく、内部にとどまりながら温度を下げた作家だった。絵の具の濃淡、マチエール、筆跡は確かに画面に残っている。しかしそれらは感情や物語へと接続されることなく、どこかで止められている。爆発することも、流れ出すこともなく、構造の中で固着しているのである。
この「止まり方」に、ジョーンズの身体性の特質がある。それは内面を雄弁に語る身体でも、完全に消去された非身体でもない。数字や直線、旗といった、あらかじめ構造が定まった形式の中で、身体は自由に振る舞うことを許されない。その結果として現れるのは、意味から切り離された抵抗としての身体である。描くことをやめることはできないが、表現として成立させることも拒まれる。この宙吊りの状態が、ジョーンズの作品に独特の緊張と視覚的魅力を与えている。

マーラー/ステラとドビュッシー/ジョーンズ――解決と滞留の二つの近代
ジョーンズの立ち位置をより精密に捉えるためには、視覚芸術の内部比較だけでなく、近代音楽史とのアナロジーが有効である。とりわけマーラーとドビュッシーの対比は、ジョーンズの歴史的位置を説明するうえで強い照射力を持つ。
マーラーは、交響曲という19世紀的形式を解体するのではなく、極限まで拡張することで総括した作曲家である。民謡、軍楽、宗教音楽、アイロニー、私的感情といった異質な要素をすべて呑み込み、世界そのものを形式内部に再構築する。その結果、交響曲はもはや部分的な表現ではなく、全体性を語り切る装置となった。そこでは問題は解決され、形式は閉じられる。以後の作曲家は、その巨大な完成を前に、断絶か否定によってしか前進できなくなる。
フランク・ステラのブラック・ペインティングは、美術におけるこのマーラー的態度と重ねて理解できる。ステラは絵画の内部問題――平面性、支持体、構造――を徹底的に前景化し、象徴や表現を排除することで「絵画とは何か」という問いに決着をつけた。身体の痕跡は残るが、それは意味を生まない副産物にとどまり、最終的には構造が勝利する。ここでモダニズムは一つの安定点に到達し、問題は解消される。

これに対してドビュッシーは、調性を破壊することなく、その機能を曖昧化することで音楽を変質させた。和声は解決せず、形式は流動化し、時間は直線的に進行しない。音楽は目的地へ向かう運動ではなく、状態として持続する。ドビュッシーは問題を解かなかったが、その未決性そのものを成立させたのである。
ジョーンズの絵画は、このドビュッシー的態度と深く共鳴する。彼は絵画を捨てないが、意味を確定させない。記号を用いるが、概念へと回収しない。身体性を消さないが、表現へと高揚させない。問題は解消されず、宙吊りのまま持続する。この未決性こそが、ジョーンズを単なる過渡期の作家ではなく、後続に開かれた存在として位置づける。マーラー/ステラが歴史を閉じたとすれば、ドビュッシー/ジョーンズは歴史を開いたのである。
未決のまま煮込まれるカツカレーカルチャリズム
ジョーンズの仕事を、カツカレーカルチャリズムの視点から捉えることも可能である。カツカレーとは、本来別々の論理を持つ要素が、完全に溶け合うことなく、一皿の上で共存している状態を指す。そこには混成、余剰、境界の曖昧さ、そして視覚的・感覚的な美味しさがある。
ジョーンズの絵画もまた、記号と身体、構造と偶然、意味と物質が分離されたまま並置されている。どちらかが勝利することはなく、どちらも排除されない。そのため作品は決して軽くならず、同時に重苦しい理念にも回収されない。見る者は、解釈の完成を強いられることなく、しかし純粋な物として消費することもできない。その中間領域にとどまり続ける。
カツカレーカルチャリズム的に言えば、ジョーンズは「勝利した完成品」ではなく、「煮込み続けられる皿」である。抽象表現主義、ミニマリズム、コンセプチュアル・アートといった系譜のどこにも完全には属さず、それらを低温で撹拌し続ける。その未決性と停止した身体性こそが、今日においてなお彼の作品を有効なものにしている理由である。ジョーンズは歴史を閉じなかった。むしろ、開かれたままの問いとして、静かにそこに置かれ続けている。



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