カツカレーカルチャリズム画家列伝23 ~香月康夫、松本俊介 編

アート

香月康夫 ― シベリアの記憶を煮込む静かなカツカレー

出典:山口県立美術館/香月康夫「青の太陽(シベリアシリーズ)」

香月康夫の絵画を前にすると、そこにあるのは激しい衝突でも、劇的な融合でもない。異なる要素が長い時間をかけてゆっくりと煮込まれ、いつのまにか一体となったような静けさである。彼の作品は、西欧的な構築精神と日本的な感性、理性と詩情、秩序と余白のあいだを絶妙に往復し、どちらにも偏らずに存在している。カツカレーカルチャリズム的に言えば、香月の絵画は「異文化の混成が、熱ではなく“ぬくもり”として溶け合った理想形」とも言える。

香月が育った京都は、伝統文化と近代的西欧思想が混在する都市だった。茶道や絵画、庭園の微細な感覚と、戦前に取り入れられた西欧の構築的な美術教育。そんな環境の中で香月は、構築的でありながら感覚的、理論的でありながら情緒的という、相反する性質を自然に吸収していった。戦前には対象を構成的に捉える眼差しを培い、戦後にはシベリア抑留という極限体験を経て、作品はより深い感情と時間の重みを帯びることになる。抑留体験について香月は生前、「目に見えるものよりも、目に見えぬ時間と空間の重みを描きたい」と語ったという。その言葉が示す通り、彼の絵には体験の時間が画面に染み込んでいる。

シベリアシリーズに見られる深い質感は、まさにその体験の痕跡である。寒さ、孤独、そして生き延びることへの執念。それらの感覚は、矩形や線の整然とした構成の中に微妙な歪みや滲みとして現れ、理知的な秩序に生命を吹き込む。長い年月の静かな煮込みの末に形成されたこの「揺らぎ」は、作品に人間の呼吸を感じさせる。西欧的な構築精神と日本の“間”の美意識が互いに打ち消し合うことなく共存し、観る者はそこに静かな力強さを見出す。

出典:山口県立美術館/香月康夫「埋葬(シベリアシリーズ)」

また、香月の絵には常に人の気配が漂う。寒風に揺れるシベリアの窓辺の空気、手元に残された日用品の影、抑留所で過ごした日々の光――そうした記憶の断片が形を変え、画面に溶け込んでいる。抽象ではなく、むしろ具象的な記憶を濾過し、余韻の形として定着させる手法である。そのため、シベリアシリーズは冷たさや絶望感に支配されるのではなく、悲しみと痛みの中に、静かな光と温度を保っている。画家の友人である同僚画家は、「香月の絵の前に立つと、凍てつく記憶の中に温かい呼吸があるのを感じる」と証言している。

カツカレー的な視点で言えば、香月のシベリアシリーズは「焦げ跡を受け止めつつ、時間をかけて煮込まれた深い味わいのカレー」のようである。辛さや苦味だけでなく、素材そのものの旨味を丁寧に引き出すように、戦争の傷跡や極限体験が作品の土台となり、その上で理性と感情、秩序と余白が時間をかけて調和する。結果として生まれるのは、劇的な表現ではなく、静かで深い共感と美の感覚である。

香月康夫の絵は、痛みを経てもなお、人間の強さと優しさを信じ続ける証である。シベリアの記憶を一つひとつ煮込み、秩序と情感を一つの器に収めたその画面は、まさに「静かなカツカレー」のように、観る者の心に長く余韻を残す。香月の作品を前にすると、絵画はただの視覚体験ではなく、生き延びた時間と記憶の深みを受け取る行為になるのだ。

出典:山口県立美術館/香月康夫「北へ西へ(シベリアシリーズ)」

松本俊介 ― 静層としての詩情

松本俊介の絵を前にすると、まず目に飛び込むのは構図や人物の孤独よりも、絵肌(マチエール)の呼吸である。厚く盛り上げられた絵具の上に、何層にもグレーズを施していくその手つきは、西洋の油彩技法を踏まえながらも、どこか日本的な「滲み」や「透け」の感覚を孕んでいる。松本の画面は物質でありながら、同時に霊的な層を帯びる。そこに生まれる光のにじみ、肌理の揺らぎは、単なる技法ではなく、「見ること」と「触れること」を結ぶ詩的体験を呼び起こす。近づけば質感の震えにぞくっとし、離れれば全体が静かな詩情として溶け合う。この二重性こそ、彼の絵に潜む“旨味”である。

出典:Wikipedia/松本俊介「Y市の橋」

松本の制作態度には、強い内省性がある。社会的現実を描きながらも、その眼差しは最終的に自らの内部へと折り返す。人物の視線や沈黙には、社会批評的な鋭さとともに、自我の深部に向かう内的探求が同居しているのだ。筆跡に残る凹凸をグレーズで覆いながら層を重ねていく行為は、まるで自己の記憶や感情を封じ込め、再び現像していくようでもある。松本にとっての絵画とは、外の世界を再現することではなく、「自我を暗室で現像する」ような作業であった。暗闇の中で印画紙から像が浮かび上がるように、彼のキャンバスでも、内面がゆっくりと光を帯びて現れる。その過程が、彼の作品に独特の沈黙と詩情を与えているのだ。

この「層を重ねる」行為を、カツカレーカルチャリズムの視点から見れば、松本はまさに混成の職人であったと言える。カツカレーカルチャリズムとは、異文化性、境界横断性、余剰性、そして“美味しさ”の幸福を内包するフレームであるが、松本の制作にはそのすべてが沈黙のかたちで息づいている。西洋油彩という異文化を、日本的感性の中で消化し直し、グレーズという透明層の中に「異国の影」と「日本の光」を重ね合わせていく。ここで絵画は、文化の翻訳を超えて、味覚的とも言える体験――すなわち「層の美学」へと昇華する。グレーズはただの表面処理ではなく、時代や文化、心情の堆積であり、まさにルゥを煮込みながら旨味を染み込ませるカツカレー的行為である。

出典:Wikipedia/松本俊介「街」

さらに注目すべきは、その絵肌の構造が、現代のデジタルレイヤーと奇妙に響き合う点だ。PhotoshopやProcreateでの重ね描きと同様に、松本のグレーズは可視と不可視の境界を操作し、光と時間を層として封じ込める。アナログでありながら、後のデジタル感覚を先取りするような構造性。ここに、モダニズム以降の純粋性への抵抗――“境界を混ぜてしまう”ポストモダン的直感が見え隠れする。松本の筆跡は、文化や時代を越えて「層の中で思考する感性」を示しているのだ。

その質感の中には、余剰がある。写実でも抽象でもない、説明不能な手触りの幸福。表面的な明快さを超え、見えない層にこそ美が宿るという東洋的直観が息づく。静謐な画面の下に、厚みのある人間存在の温もりが溶けている。社会と個、外界と内面――その両方を抱え込んだまま、松本は絵画という暗室で「自己という像」を焼きつけたのである。

松本俊介の絵肌は、単なる物質の質感ではなく、異文化と時代を煮込んだスープの表面のように揺らぐ。そこに映る光は、戦時という不透明な時代の中でなお、人間の存在を静かに肯定する温かさを放っている。カツカレーカルチャリズム的に言えば、それは「混ざることの幸福」の具現。松本のグレーズは、時を超えて我々に伝える――文化も感情も、層を重ねたとき、もっと美味しくなるのだ。

出典:Wikipedia/松本俊介「黒い花」

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