モダニズム再考 ― フライ/ベル/グリーンバーグ/フリードの系譜と反転
モダニズムという言葉は、20世紀美術を語るとき避けて通れない。だが実際のところ、その中心にいた批評家たち ― ロジャー・フライ、クライヴ・ベル、クレメント・グリーンバーグ、マイケル・フリード ― が追求した思想は一つの線ではなく、複雑な反復とずれをはらむ。ある点では連続し、ある点では互いを否定する。にもかかわらず、全体としては“絵画とは何か”という問いを鋭利に、ある意味では偏執的なまでに追い込んでいった系譜である。モダニズム再考とは、彼らの“純化”の軌跡をたどりつつ、その背後で抑圧されてきたイメージの混成性、文化の多義性、さらには現代的な雑種性の可能性を読み直す作業でもある。
まずロジャー・フライは、モダニズムの理論的起点として位置づけられる。彼が1910年代に開いたポスト印象派展は、単なる美術動向の紹介にとどまらず、鑑賞者の知覚の組み換えを試みる文化的事件だった。フライによれば、絵画とは対象を再現する器ではなく、形と色の関係がつくりだす「視覚的リズム」を通じて感覚的経験を再構築するものだ。つまり、作品の本質は“外界との対応”ではなく、“視覚そのものの内的秩序”にある。後の形式主義の源泉とされるこの思想は、まだ硬い教義というよりは、絵画を自由にするための開放的な認識論であった。文化混交性をもつ現代的な視点から見返すと、むしろフライは“純化の始祖”ではなく、“形式へ向かう扉を開いた柔らかな媒介者”として読める。
クライヴ・ベルは、このフライの発想をより明確に、そして大胆に推し進めた。1914年の著書『Art』で打ち出された「有意味的形式(Significant Form)」という概念は、モダニズム美術を定義づける最初の強力なスローガンになった。ベルによれば、芸術作品の価値は、描かれた対象や物語ではなく、形・線・色の組み合わせが喚起する「審美的感情」にある。つまり芸術とは、文化・歴史・物語といったコンテクストから切断され、純粋に視覚的構成だけが意味を持つ領域として確立されるべきだという主張である。この明快さは魅力的である一方で、最初から“純化の方向”に美術を縛りつける硬さもあった。だがベルの理論は、今の私たちの感覚で言えば、むしろ“美術を文化から切り離すための過激なプロトタイプ”として読める。そこには多文化的な混成性を抑圧する一種の美学的潔癖が潜んでいる。
この“純化の路線”を歴史的必然性として制度化したのが、クレメント・グリーンバーグである。1940〜60年代、アメリカ絵画が抽象表現主義から色面絵画へ移行するなかで、グリーンバーグは、絵画が自らの媒介的特性――とりわけ“平面性(flatness)”――を自覚し極限化することこそ近代絵画の必然であると論じた。つまり、絵画は彫刻でも写真でも文学でもない。その媒体固有の性質である平面性を突き詰めることで、他ジャンルとの差異化と自律性を獲得する。これはベルの“審美的感情”という主観的モデルを捨て、より客観的・構造的な必然性へと置き換えた理論であり、戦後アメリカ美術の正統を形づくった。ステラ、ニューマン、ロスコ、フランケンサーラーなどの作品がグリーンバーグ的図式に位置づけられたことで、モダニズムは一種の制度化・規律化を遂げたと言える。ただし、この制度化は同時に“文化の煮込み”的な広がりを拒絶し、“絵画は絵画であるべきだ”という硬直した規範へと変質した。
この規範の極点で、ある意味ではモダニズムの“内的爆発”を引き起こしたのがマイケル・フリードである。彼は1960年代後半、ミニマリズム(ジャッド、モリスなど)が提示した“物体性”や“環境性”を批判した論文「Art and Objecthood」で、近代美術における最大の敵として“演劇性(theatricality)”を名指しした。フリードにとって、良い絵画・彫刻とは、鑑賞者が作品と対峙した瞬間に成立する「同時性(presentness)」を備えているべきものであり、身体的な移動や時間の持続を前提に成立するミニマリズムは“視覚芸術の本質からの逸脱”だったのである。ここに見られるのは、グリーンバーグ的純化の継承であると同時に、その限界を自ら暴露する矛盾でもある。フリードの批判は、ミニマリズム以降の関係性の美学、インスタレーション、パフォーマンス、さらには今日の没入型アートへと美術が拡張していく契機をむしろ促した。つまり“純化の守護者”として戦ったフリードが、逆説的に“文化の雑種化”の扉を押し広げてしまったのだ。
こうして見ていくと、モダニズムの系譜は単なる直線ではなく、開放と純化、解放と規律、雑種性と自律性が複雑に交錯するダイナミックな運動として再解釈できる。フライの柔らかな知覚論、ベルの過激な形式主義、グリーンバーグの歴史的必然性の論理、そしてフリードの反演劇性 ― これらは相互に矛盾しながらも、20世紀美術における「絵画とは何か」という問いを激しく揺さぶった。だが同時に、この問いは絵画を文化から切り離す方向へ偏っていたがゆえに、21世紀的な視点から見ると、むしろ“多文化的な混成の抑圧史”としても読める。
現代美術が示すのは、絵画が必ずしも平面性へ収斂するわけでも、鑑賞者の身体を排除するわけでもなく、文化・素材・技術・物語・身体性・社会性など、多様な要素がカレーのように煮込み合いながら、それぞれの作品固有の強度をつくり出しているという現実である。つまり、モダニズム批評の系譜を再考することは、フライ/ベル/グリーンバーグ/フリードという“純化の歴史”をたどり直すだけでなく、その背後で押し隠されてきた“混成の可能性”を見つけ直す試みでもある。今日の美術を理解するうえで、もっとも重要なのはこの“二重のレイヤー”を読み解く眼差しなのだろう。
モダニズムからポストモダンへ ― ロザリンド・クラウスの拡張する視野
20世紀美術のモダニズムは、フライやベル、グリーンバーグ、フリードという批評家たちによって形作られた、ある意味で「純化」の歴史である。絵画は絵画であるべきだ、彫刻は彫刻であるべきだ、媒体固有の特性を極限まで追求することで美術は自律性を獲得すると考えられた。しかしこの純化の理論は、その規律の硬さゆえに、文化的雑種性や境界横断的な試みを外部に追いやる効果をも生み出した。そこに現れたのがロザリンド・クラウスである。クラウスはモダニズムの内部から育ち、グリーンバーグ的な純粋視覚の理論を踏まえつつ、それを批判的に再読することで、ポストモダン美術理論への道を切り開いた。
クラウスが最初に注目したのは、グリーンバーグの平面性論やフリードの反演劇性論が示す「美術の自律性」への過剰なこだわりである。モダニズムにおいては、絵画も彫刻も、媒体固有の特性によって自己完結的に成立することが理想とされていた。しかしクラウスは、ミニマリズムやランドアート、写真、映像、パフォーマンスなどの新しい美術表現が示すように、作品はもはや孤立した媒体の塊として理解できないことに気づいた。作品は環境や観者の身体、時間、社会的文脈、歴史的条件と結びつき、意味を形成していく。この状況を前に、モダニズム的な自律性理論はあまりにも狭く、現実の美術を説明しきれないのだ。
この批判は、1979年の論文『Sculpture in the Expanded Field(拡張された場の彫刻)』で明確に示される。クラウスは、従来のグリーンバーグ的枠組みが彫刻を「建築ではなく、風景でもなく、物語でもないもの」と否定的に規定してきたことに注目し、そのネガティブな定義を図式化した。そして、彫刻の可能な領域はむしろ、建築やランドスケープ、自然や環境といった周辺領域を取り込みつつ拡張されるべきだと論じたのである。彼女が提示した“拡張された場”の概念は、ランドアートやサイトスペシフィック・アート、ミニマリズム以降の物体表現など、ジャンルの境界を横断する実践を正当化する理論的基盤となった。この理論は、モダニズムの自律性が追求してきた純粋性を内部から解体し、美術を文化的・空間的・社会的文脈へ再び開く試みとして位置づけられる。
さらにクラウスは、写真やビデオ、パフォーマンスのような制御不能で複製可能なメディアにも価値を認めた。これらは、フリードやグリーンバーグが避けた領域であり、モダニズムが規定してきた“美術の中心”の外にあるものだった。しかしクラウスは、こうした作品が持つ機械性、時間構造、観者との関係性を分析し、メディアの固有性だけではなく、社会的・文化的条件と結びつくことこそが意味生成の重要な要素であると示した。この視点は、後のポストモダン理論、とりわけハル・フォスターや『October』誌で展開された議論の根幹にもなっている。
クラウスの功績は、モダニズムの「純化された美術」という狭い視野を批判するだけにとどまらない。彼女は、メディアの境界横断、文化的文脈の多層性、観者との関係性といった要素を美術理論の中心に据えることで、ポストモダン美術の概念的基盤をつくったのである。モダニズムが強調した孤立した形式の純粋性は、彼女により「拡張され、混成された場」の中に位置づけ直される。この転換は、今日の美術を理解するうえで不可欠であり、カツカレーカルチャリズム的に言えば、文化の“煮込み”のように多層的で多義的な関係性の中に美術を戻す作業に他ならない。
こうして、モダニズムの純化とポストモダンの拡張は、単なる対立ではなく連続性をもつ歴史的プロセスとして理解できる。フライやベルが開いた視覚経験への道、グリーンバーグやフリードが突き詰めた形式の自律性、そしてクラウスが示した拡張された場の概念――これらを通して、美術史は純化と混成、孤立と拡張という二重構造の中で動いてきたのである。現代美術の多様性や境界横断性を理解するには、この二重構造を意識することが不可欠であり、モダニズムとポストモダンは一続きの歴史的回路として読み解かれるべきなのである。
カツカレーカルチャリズム的視点 ― 混成・境界横断・余剰性の美術史
モダニズムが形式の純化を追求し、ポストモダンがその純化を解体して拡張された場へと向かった歴史の延長線上で、現代美術を読み解くためには、より柔軟で多層的な視点が必要になる。ここで登場するのが、カツカレーカルチャリズム的な視座である。すなわち、美術を単なる形式や媒体の自律性として捉えるのではなく、異質な文化的要素や技法、時間的・空間的文脈を煮込み合わせたように、多層的に重ね合わせる観点である。この視点は、20世紀の批評家たちが示した純化や拡張を踏まえつつ、それをさらに現代的な“雑種性”や“余剰性”の観点から再解釈するものである。
モダニズムが掲げた純粋性、すなわち絵画は平面性に徹し、彫刻は物体性に集中するという規範は、美術史の秩序化には一定の成果をもたらした。しかし同時に、異なる文化や素材、形式が混ざり合う余地は狭められた。グリーンバーグの理論においては、色面絵画やステイン技法の純粋性が至高とされ、観者の身体的経験や文脈的意味は排除された。フリードの理論もまた、視覚的瞬間性を理想とすることで、空間的・時間的な拡張や観者の関与を制限した。しかし、これらの規範を踏まえたうえでロザリンド・クラウスが指摘したように、美術は媒体や形式に閉じ込められるだけではなく、環境、社会、歴史と不可分に結びつくものとして理解されるべきである。クラウスは、彫刻や物体表現の領域を建築やランドスケープと重ね合わせて分析することで、形式の自律性に制約されない多層的空間の可能性を示した。
カツカレーカルチャリズムの視点は、ここにさらに一歩踏み込む。モダニズムが単独の形式としての美術を、ポストモダンが拡張された場としての美術を示したのに対し、カツカレーカルチャリズムは、美術の要素が“文化の鍋”で煮込まれるように、異質な価値や技法、思想が同居する状況を重視する。たとえば、抽象表現主義の色面爆発、ミニマリズムの物体性、ランドアートの環境性、コンセプチュアル・アートの思考性、さらにデジタル技術やポップカルチャー的要素、地域固有の表現や伝統的工芸の影響まで、すべてが重層的に混ざり合う場として美術を理解する。ここでは、純粋性や自律性は目的ではなく、あくまで文化的多層性の中で生成される一つの条件として位置づけられる。
さらに、カツカレーカルチャリズム的視点は、時間的な多義性をも重視する。モダニズムでは歴史的必然としての進歩線が描かれ、ポストモダンではそれが解体されるが、カツカレーカルチャリズムでは異なる時代、地域、文化の要素が同時的に交差し、ある作品や表現が複数の意味を持つことが肯定される。この“余剰性”は、単に飾りや混乱ではなく、作品に独自の生命力と文化的豊かさを与える要素として理解される。文化的・歴史的・社会的条件が煮込み合わされることで、美術は一義的な価値判断を超え、多層的で豊饒な経験として立ち現れる。
具体的には、モダニズムが強調した形式的秩序や媒介固有性の美しさは残しつつも、それを他ジャンルや他文化との接続点として捉え直す。たとえばステイン絵画の色面展開は、純粋視覚の実験として成立すると同時に、日本の墨絵や江戸後期の絵画表現、あるいはデジタル画像の色彩構造と交響することができる。また、ランドアートやサイトスペシフィック作品は、自然や都市空間、歴史的文脈、観者の身体性と結びつき、多層的な意味を持つ場として体験される。このようにして、作品は単一の解釈やジャンルに収斂せず、文化的に豊潤で複雑な「煮込み状況」の中で成立する。
この視点は、21世紀の美術実践においても有効である。デジタル技術の導入やメディア横断的表現、地域文化との接続、国際的な文化交流の影響など、現代の作家たちは常に多層的な文化的素材を用いて作品を構築している。カツカレーカルチャリズム的理解は、こうした複雑な背景をただの“雑多な要素”としてではなく、作品の魅力や意味を生み出す積極的要因として位置づけることを可能にする。モダニズムの純化も、ポストモダンの拡張も、最終的にはこの多層的な文化的スープの中に再統合され、作品の価値は複数の視点や時間軸、文化の文脈の中で立体的に生成される。 総じて、カツカレーカルチャリズム的視点は、モダニズムとポストモダンの流れを受けつつ、多文化性(多層性)、境界横断、余剰性、美味しさ(映え)という概念で美術を再読する試みである。形式の純化や拡張された場の概念は、単独で理解されるのではなく、異なる文化や時代、技法、文脈が混ざり合う“スープ”として再配置されることで、初めて現代美術の豊かな多義性と力強さを描き出すことができる。こうして、美術史は直線的な進歩や規範の連鎖ではなく、多層的で交差する文化の流れとして理解されるのである。



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