評価に収まらない教科の違和感
図画工作や美術にかかわった経験をもつ者であれば、一度は「評価」に対する強い違和感を覚えたことがあるだろう。作品の出来を点数に置き換えることへの抵抗感、活動の途中で生まれた揺らぎや迷いを、観点別評価の言葉に回収してしまうことへのためらい。とりわけ「造形遊び」と呼ばれる活動は、評価という制度的枠組みともっとも相性が悪い。目的が途中で変わり、結果よりも過程が意味をもつ活動を、あらかじめ定められた評価項目に当てはめること自体が、どこか本質を外しているように感じられる。
しかし同時に、評価は教育制度の内部にある以上、避けて通れない。評価は教師個人の裁量ではなく、子どもや保護者に「返却」され、学級経営や学校運営、さらには行政の説明責任とも結びついている。評価とは学習の確認であると同時に、学校という制度が社会と接続するための装置でもある。そのため、図工や美術だけを特別扱いすることは難しく、他教科と同じ形式に揃えようとする圧力が常に働く。
このとき現場に生じる「困り感」は、個々の教師の力量不足ではない。むしろ、図工・美術という教科が、教育制度の中で異質な性質をもって存在していることの表れである。
制度に組み込まれることで生まれる隙間
一見すると、制度に組み込まれることは自由を奪うように思える。しかし図工・美術の場合、正規教科として教育課程に位置づけられているからこそ、逆説的に「隙間」が生まれてきたとも言える。
教室に入れない子ども、長期欠席をしている子どもが、保健室や自宅で絵を描いている姿は、決して珍しいものではない。彼らは授業という中心からは外れているが、完全に学校の外にいるわけでもない。その中間的な場所で、評価も強制も伴わないかたちで描くという行為が立ち上がる。そしてある時、「実は描いたものを見てほしい」と、課外の時間にそっと差し出される。
ここで起きているのは、教育の枠内で完結する学習ではない。制作が先にあり、後から他者との関係が生まれるという順序である。この構造は、アートが社会と関わる際の原型的なかたちと重なっている。重要なのは、この行為が成立する背景に、「学校には図工や美術がある」という前提が存在している点である。描くことが学校の正規の営みとして承認されているからこそ、制度の縁にある場所でも、その行為は意味を失わずにいられる。
学習指導要領改訂と生存戦略
学習指導要領の改訂を振り返ると、図工・美術は決して不変ではなかったことがわかる。美術や音楽に「共通事項」が加えられたことは、その象徴的な例である。造形や音楽の感覚的な営みに、構造や要素、関係性といった言葉が導入された背景には、他教科と同じ「学び」として説明可能にしなければならないという制度的要請があった。
また、評価の観点において「技能」が「創造的な技能」と言い換えられたことも重要である。技能という言葉がもつ訓練や習熟のイメージを引き受けつつ、それだけでは測れない創造性を含み込むための、苦肉の表現であったと言えるだろう。これらの変更は、図工・美術が他教科に同化した結果というよりも、異質な性質を保ったまま制度内に留まるための、生存戦略として理解する方が適切である。
改訂のたびに残されてきた「情操を養う」「感性を育む」といった抽象的な言葉は、説明を放棄した痕跡であると同時に、踏み込みすぎないためのブレーキでもあった。完全に言語化できない領域を、あえて空白のまま残すこと。その歯切れの悪さが、現場において隙間として機能してきた。
教育課程が支える環境というインフラ
教育課程に教科として位置づけられていることの影響は、学校の中だけにとどまらない。もし義務教育から図工や美術が消えたとしたら、近所のホームセンターやドラッグストアから、色鉛筆や絵の具、筆といった画材は次第に姿を消していくだろう。学校で使われるという前提があるからこそ、安価で、子どもが手に取りやすい形で画材は流通している。
教育課程は、知識や技能を配分するだけでなく、文化的な環境そのものを支えている。表現に触れるための物理的・経済的条件が社会に残り続けるかどうかは、教科の存続と深く結びついている。教育課程から外れることは、単に授業時数が減ることではなく、表現にアクセスする回路が細っていくことを意味する。
その結果、救える選択肢そのものが減っていく。描くこと、つくることが、特別な才能や経済的余裕をもつ者だけの行為になってしまえば、制度の縁でかろうじて保たれていた回路は閉ざされてしまう。
GIGAスクールと身体性の問題
近年の教育環境を考える上で、GIGAスクール構想を避けて通ることはできない。タブレット端末が一人一台配備され、「タブレットがあれば絵は描ける」という言葉も、現場では半ば常識のように語られるようになった。確かに、画材の準備や片付けにかかる時間は大幅に縮小され、授業運営の効率は向上する。ペイント機能やレイヤー機能、資料画像の切り抜きやコピー&ペーストなど、デジタルならではの表現手段は、従来の画材では不可能だった造形の可能性を切り開いてきた。技能的な制約のハードルが下がり、表現への参入障壁が低くなった点も見逃せない。
しかし、その一方で、デジタル表現がもたらす感覚の変化については、慎重に考える必要がある。何本も線を引き直し、消し、また引くという試行錯誤の末に「これだ」と判断する身体的な経験。紙の抵抗、筆圧の揺れ、絵の具の重なりといった感触を通して、行為と結果が不可逆的に結びつく感覚。そこから生まれる達成感や満足感は、デジタル環境では希薄になりやすい。
デジタル表現では、やり直しが常に可能であり、結果は可逆的である。そのこと自体が悪いわけではないが、判断の重みや行為の手応えが身体に刻まれにくいという側面は否定できない。身体を通して世界と関わり、失敗や躊躇を含めて選択を引き受ける経験は、単なる技能習得を超えて、人格形成の根幹に関わる。ここで問題となるのは、身体性が単なる感覚の問題にとどまらず、不可逆性の感覚を伴う点である。
重要なのは、タブレットか画材かという二項対立ではない。それぞれに固有の価値があり、補完関係にある。しかし、身体性と直接結びついた表現経験が教育課程から後景化していくとき、子どもたちが世界と向き合う感覚そのものが変質してしまう可能性がある。その影響は、短期的な学習成果としては現れにくいが、長い時間をかけて個人の感受性や判断の仕方に作用する。たとえば、うまくいかなければリセットして最初からやり直すというゲーム的な経験は、思考の訓練としては有効である一方、現実の行為がもつ不可逆性の感覚を希薄にする危うさも孕んでいる。行為は取り消せないという感覚、選択には回収不能な結果が伴うという理解は、倫理的判断の基盤でもある。
この不可逆性の感覚は、表現の領域を超えて、倫理の問題へと接続していく。過去に起きた痛ましい事件をきっかけに、道徳教育のあり方が見直されてきた経緯を振り返るとき、そこには「行為の重さ」をどのように実感させるかという問いが横たわっていることがわかる。頭で理解する規範だけではなく、身体を通して蓄積される感覚としての不可逆性が、倫理的判断を支えている。
図工・美術における身体的な表現経験は、直接的に道徳を教えるものではない。しかし、線を引き、塗り重ね、やり直しのきかない痕跡を引き受ける経験は、世界との関係が一回性をもつという感覚を静かに刻み込む。その意味で、造形活動は倫理教育の周縁に位置しながら、実は深いところで支えている。
教育とアートをつなぐ回路
図工・美術教育は、すべての子どもをアーティストにするためのものではない。むしろ、表現という行為を社会から完全に切り離さないためのインフラとして機能してきた。評価に収まりきらない違和感、制度の中で宙吊りにされた領域、それらが完全に排除されないようにするための緩衝材として、図工・美術は教育課程の内部に置かれている。
ここまで見てきたように、造形活動は単なる表現教育にとどまらない。評価不可能性という特性は、制度運営上の弱点として扱われがちだが、実際には教育が引き受けるべき重要な役割を担っている。身体を通して行為と結果の不可逆性を経験すること、判断の重みを感覚として引き受けることは、人格形成や倫理的判断の基盤に深く関わっている。
GIGAスクール構想のもとでデジタル環境が整備され、表現の可能性が拡張されている現在だからこそ、身体性と直接結びついた造形経験の意味は再確認されるべきである。効率性や管理のしやすさだけを基準に教育環境を再編してしまえば、短期的には合理的に見えても、長期的には子どもたちが世界と向き合う感覚そのものを痩せさせてしまう危険がある。
教育課程に図工・美術が位置づけられていることは、授業内容の問題にとどまらない。それは、画材が流通し、表現に触れる環境が社会に残り続けるための条件であり、制度の縁にいる子どもたちが、かろうじて世界と接続する回路を保つための基盤でもある。もしこの教科が後景化し、あるいは形式的なデジタル代替に置き換えられていくとすれば、救えるはずだった選択肢は静かに失われていくだろう。
制度や教育の編成に関わる読み手に求められているのは、図工・美術を特別な情操教科として守ることではない。評価しにくく、説明しにくいにもかかわらず、それでもなお教育課程の中に残されてきた理由を、制度的・文化的に再認識することである。図工・美術は、教育が完全に合理化されることを防ぐ最後の緩衝地帯であり、アートへと続く回路を社会に残すための要である。その位置づけを意識的に引き受けることが、これからの教育課程編成において、きわめて重要な判断になる。



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