コラム13:出会いの設計 ― 宿らせない表現のための覚書

アート

完成ではなく、遭遇としての作品

作品は、完成した瞬間に閉じるのではなく、鑑賞者との出会いの瞬間に開く。
この視点の転回は、近年の絵画や現代美術の受容を考えるうえで、ますます重要になっている。主題やコンセプト、社会的メッセージの明確さが、評価や流通の前提になりがちな現在において、あらためて問われるべきなのは、作品が何を語るか以前に、どのように「出会われるか」という点である。

展示空間に足を踏み入れた瞬間、あるいは不意に図版と出会った瞬間、鑑賞者の身体や知覚に何が起こるのか。その初動の設計は、作品の意味内容以上に、その後の体験を規定している。作品は語る前に、すでに作用している。

理解より先に起こる知覚の層

近年の絵画やインスタレーションの中には、明確な制作動機やテーマを内包しながらも、それを即座に「理解」させることを目的としないものが多く見られる。色彩の密度、支持体のスケール、筆致やマチエールの集積、展示空間における距離や配置。これらは意味を補足するための要素ではなく、意味と拮抗する感覚の層として立ち上がる。

鑑賞者は、読み解こうとするよりも先に、まず身体で反応する。視線がどこに留まり、どこで逸れるのか。近づきたくなるのか、距離を取りたくなるのか。そこで起きているのは理解ではなく、知覚の一時的な再編成である。この段階では、作品はまだ語られていない。ただ、静かに、しかし確実に作用している。

虚構と現実の境界が緩む場所

絵画や美術作品は、現実をそのまま再現する装置ではない。写実であっても抽象であっても、そこには現実とは異なる秩序があらかじめ組み込まれている。鑑賞者はそのことを了解したうえで作品に向かうため、「何が起きてもおかしくない」という受容の姿勢を最初から内包している。

この態度は、作品を説明の対象ではなく、出来事として受け取る余地を広げる。説得や納得を経由せず、作品が直接、感覚や感情の回路に触れることを可能にする。美術の文脈で言えば、それは感覚の再調律、あるいは知覚のチューニングに近い。

作品は何かを教えるのではなく、鑑賞者の内部にある設定値を、わずかにずらす。

宿らない力としての「羊」

この「ずれ」を考えるうえで、村上春樹『羊をめぐる冒険』に登場する「羊」の存在は示唆的である。羊は、特別な力や才能の象徴として描かれながら、それを所有することは誰にも許されない。羊は人に宿るのではなく、通過する。力は借りることができても、保持することはできない。

羊が去ったあとの人物に残るのは、達成感や充足ではなく、むしろ空白や違和感である。しかしその空白こそが、物語を単なる成功譚から引き離している。才能や力を「自分のもの」にしようとした瞬間に、それは暴力や崩壊を招く。羊はそのことを、終始、無言のまま示し続ける。

この構造は、表現における才能やインスピレーションのあり方とも重なる。表現は主体に宿る資質ではなく、条件が揃ったときに、一時的に通過する現象として現れる。

奈良美智の絵画における感情の所在

奈良美智の作品に描かれる人物像は、一見すると、感情が強く「宿っている」ように見える。怒り、不満、拗ね、反抗。ときに無垢さや孤独。これらは明確な表情として提示され、鑑賞者の感情を即座に刺激する。

しかし、注意深く見ていくと、そこにある感情は固定されていない。怒っているようにも見え、傷ついているようにも見え、ただ放心しているようにも見える。感情は像の内部に留まらず、鑑賞者の側へと滑り出してくる。

奈良の絵画は、感情を表象しているというより、感情が通過するための媒体として機能している。見る者は、そこに自分の感情を読み込み、同時に、それが自分のものであったことに後から気づく。感情は作品に宿っているのではなく、作品を経由して循環している。

出典:Artpedia/奈良美智

発酵としての変化

ここで立ち上がるのは、「宿らなさ」を否定ではなく、発酵として捉える視点である。発酵は、目的や成果として管理された瞬間に、その本質を失う。条件と時間が揃ったときに、意図を越えて起こるからこそ、発酵は発酵たりうる。

作品が鑑賞者の内部で引き起こす変化も同様である。それは何かを理解したという感覚よりも、まだ言語化されていない感覚が、わずかに動かされたという感触として残る。記憶になる前の層、物語化される以前の関心が、静かに揺さぶられる。

香りが過去の記憶を呼び起こす、という比喩はよく用いられるが、ここで問題になっているのは、すでに確定した過去ではない。まだ名付けられていない感覚、まだ物語を持たない経験である。

邪魔をしないための設計

出会いそのものを操作することはできない。しかし、邪魔をしないことはできる。説明しすぎないこと、文脈を与えすぎないこと、意図を前面に押し出しすぎないこと。分からなくてもよい、途中で離脱してもよいという退路を残すこと。

期待値が低く設定され、過不足を含んだ提示がなされているとき、鑑賞者の身体は最も自由に反応する。関心は与えられるものではなく、想起されるものとして立ち上がる。すでに内部に存在していたが、使われていなかった回路が、偶然のように開く。

ここで作品は、完成品ではなく、出来事の触媒となる。

制作の責任の位置

制作とは、作品を完結させることではない。出会いの条件を整えることである。その先で何が起きるかは、作者の手を離れる。しかしそれは無責任ではない。むしろ、責任の位置を一段手前に引き寄せる態度だと言える。

宿らせないための表現とは、空白を放置することではなく、発酵の余地を残すことだ。制度化された新しさではなく、意図しない新鮮さが生じる可能性を、そっと支えること。その実践は、きわめて現実的でありながら、同時に、これからの表現にとって有効な戦略でもある。

そして最終的に、やはり問いは一つに集約される。
作品がどのように存在するかではなく、どのように出会われるか。
その一点に、表現の未来は静かに折り畳まれている。

あーとむーす 画 アクリル B3

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