
ビョークをどこで聴き終えるか
ビョークという音楽家は、しばしば「すべてを通して聴くべき存在」として語られる。デビューから最新作までを一本の進化の物語として捉え、実験性の深化やコンセプトの高度化を評価軸に置く語り方である。しかし実際の聴取体験において、彼女の全キャリアが等しい強度で立ち上がるわけではない。むしろ、多くの聴き手にとって決定的な輝きを放つのは、ある限られた期間 ― とりわけ『Post』(1995)から『Homogenic』(1997)にかけての短いラインである。本稿では、このポスト―ホモジェニック期を中心に、ビョークの音楽がいかにして豊かさを獲得し、そしてなぜその豊かさが以後の作品では別の方向へと変質していったのかを、「カツカレーカルチャリズム」という比喩的枠組みを用いながら考察していく。

シュガーキューヴスからソロへ ― 爪先立ちのアート志向
シュガーキューヴス時代のビョークには、すでに強いアート志向が見て取れる。ただしそれは、完成された前衛ではなく、どこか宙づりの、爪先立ちのような状態だった。ポストパンクやオルタナティブの文脈に身を置きながらも、彼女の関心は常に音の質感、声の身体性、イメージの異物感へと向いていた。しかし当時の技能、制作環境、流通の条件は、その志向を十分に受け止めるものではなかった。
ソロ・デビュー以降に起きたのは、この「方向性」と「実行条件」が一気に噛み合う瞬間である。ロンドンという都市環境、ネリー・フーパーやマーク・ベルといったプロデューサーとの協働、そして自らの声を楽器として完全に自覚したこと。これらが重なり、ビョークは初めて、自身のアート志向を現実の作品として定着させることに成功した。
『Post』 ― まかないとしての奇跡
『Post』は、ビョークのディスコグラフィーの中でも特異な位置を占める作品である。テクノ、ダンス、ポップ、実験性といった異なる文脈が、理論的な整理を経ることなく、しかし驚くほど高い密度で共存している。このアルバムの魅力は、構築の精緻さよりも、むしろ雑多さと熱量にある。
ここで有効なのが「まかないのカツカレー」という比喩だ。本来は別々に供されるはずの料理を、厨房の流れの中でとりあえず一皿に盛りつけてみたところ、異様にうまかった。その偶然性と勢いが、そのまま快楽として立ち上がる。『Post』はまさにそのような作品であり、異種混交が説明される前に身体に届く。ジャンル横断が理念ではなく、結果として起きている点に、この作品の幸福がある。
また重要なのは、この時点でビョークが「アイコン」として自己定義され始めたことだ。音楽、ビジュアル、メディア露出が一体となり、「ビョーク的なるもの」が一気に可視化される。しかしそのメタ化はまだ完全には固まっておらず、生身の不安定さを内包している。この不均衡こそが、『Post』の生々しさを支えている。

『Homogenic』 ― メニュー化された完成度
『Post』の成功を受けて制作された『Homogenic』は、まかないがメニュー化された最初のカツカレーだと言える。ここでは、何が美味しかったのかが分析され、要素が整理され、再現可能な形へと落とし込まれている。ビートとストリングスの役割分担は明確になり、音の粒立ちは異様なまでに精密だ。
このアルバムでは、偶然性は後景に退き、構築性が前面に出る。そのため、初聴では距離を感じる聴き手も少なくない。しかし同時に、感情が爆発ではなく圧縮として提示されることで、独特の緊張感が生まれている。ここには、感情を自然現象や地形のように扱う態度があり、ポップでありながら彫刻的でもある。
カツカレーカルチャリズム的に言えば、『Homogenic』は幸福度よりも豊かさが最大化された段階にある。高尚さとジャンクさの拮抗は維持されつつも、全体はすでに設計された味になっている。それでもなお、この段階までは身体的快楽が辛うじて保たれており、文脈横断の楽しさも失われていない。

ヴェスパタイン以降 ― 出汁へ向かう決断
『Vespertine』でビョークは大きく舵を切る。外向きの都市性や身体性を手放し、囁き声や微細音による内向的な世界へと沈み込んでいく。この選択は、彼女自身の表現史においては到達点と呼びうるものかもしれない。しかしカツカレーカルチャリズムの文脈から見ると、これはカツをやめ、スパイスを抜き、出汁だけで勝負する方向への転換である。
以降の作品群では、観念性やコンセプトが快楽に先行し、聴き手を選ぶ度合いが一気に高まる。『Volta』で一時的にビートが再導入されるものの、それは路線回帰というより換気に近く、方向性の持続にはつながらなかった。

ポスト ― ホモジェニックの豊かさとは何だったのか
ポスト―ホモジェニック期が特別に豊かに感じられる理由は明確である。異種混交がありながら過剰に説明されず、身体的快楽が残り、高尚さとジャンクさが拮抗している。この条件が同時に満たされる時間は、実はきわめて短い。
ビョーク自身は、その後この均衡を再び目指すことはなかった。最も売れ、最も共有されうるカツカレーを出せると分かった瞬間に、彼女は厨房の奥で出汁を取り始めたのである。この選択は潔くもあり、同時にもったいなくもある。しかしそのズレをズレたまま保持し続けている点にこそ、彼女の態度の強度がある。

ビョークという稀有な存在 ― 価値はどこにあるのか
ここまで見てきたように、ビョークのキャリアは一貫した進化の物語というより、いくつかの決定的な選択の連なりとして理解したほうが実態に近い。重要なのは、その選択が常に「わかりやすさ」や「共有可能性」よりも、自身の表現の必然性に忠実であった点である。
彼女の稀有さは、ポップ・ミュージックの領域に身を置きながら、前衛や実験を“引用”や“装飾”としてではなく、生活の延長、身体の延長として扱ったところにある。前衛を特権化せず、同時に大衆化もしない。その中間に留まり続けることを、彼女は意図的に選び続けた。
また、ビョークはタコつぼ化した社会状況を悲観も理想化もしなかった。共通の広場が失われた世界において、再び全員が集まれる場を夢見るのではなく、それぞれが住める閉じた宇宙を、精度高く構築することを選んだのである。この態度はポストモダン的なアイロニーとも、関係性を回復しようとする楽観主義とも異なる。分断を前提として引き受け、その内部を徹底的に掘り下げる姿勢は、現在の文化状況においてもなお有効なモデルとなっている。
その結果として生まれたポスト―ホモジェニック期の作品は、偶然性と設計、快楽と構築、ジャンクさと高尚さが奇跡的に拮抗した断面として残った。それは彼女自身が二度と繰り返そうとしなかったがゆえに、かえって神話化されることになった時間でもある。

どこで聴き終えてもいい
ビョークをどこで聴き終えるかは、聴き手の問題である。全キャリアを追い続ける必要はない。『Post』で止めてもいいし、『Homogenic』までを特権的な断面として切り出してもいい。重要なのは、その豊かさが偶然と設計の狭間で、きわめて短い時間だけ成立していたという事実、そしてその時間を生み出した表現者が、ポップとアートの境界においていかに稀有な存在であったかを見失わないことだろう。



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