カツカレーカルチャリズム画家列伝89 ~村上隆 編

アート
出典:Artpedia/村上隆

村上隆 ― スーパーフラットの祝祭と〈製作〉としての現代カツカレー

村上隆の作品世界は、しばしば「スーパーフラット」という言葉で語られる。しかしその内実を注意深く見ていくと、それは単なる平面性の強調やポップな視覚効果ではなく、異質な文化要素を一つの皿に盛りつけ、等価に味わわせるための巨大な構造体であることがわかる。その意味で村上隆の実践は、「スーパーフラット的カツカレー」と形容するのがふさわしい。浮世絵からアニメ、プラモデル文化、消費社会、広告、そしてハイアートまで、異なる由来と価値体系をもつ要素を、平面上に、あるいは同一の制度空間に並置する。その並べ方そのものが、異質なものの同居を快楽へと転換する発想であり、カツカレー的混成文化の極致なのである。

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村上隆の初期作品には、田宮模型のロゴに代表されるような、プラモデル文化やホビーの直接的な引用が見られる。ここで重要なのは、それが単なるオタク文化への愛着やノスタルジーではなかった点だ。日本画を学んだ村上は、戦後日本が育てた模型文化やアニメ的造形を、美術制度の内部へと持ち込み、そのズレや摩擦を可視化しようとした。日本の近代美術が長らく背負ってきた「高尚な芸術」と「大衆文化」の断絶を、あえて無視し、同一平面に置くこと。それが後にスーパーフラットと名づけられる思考の萌芽であった。

出典:Artpedia/村上隆

90年代半ば以降、《HIROPON》や《My Lonesome Cowboy》に代表される立体作品では、アニメ的身体や過剰な性的表象が、工業製品のように磨き上げられた表面をまとって現れる。その光沢と均質性は、しばしばジェフ・クーンズと比較される。確かに、手の痕跡を消し去り、無垢さと欲望を同時に提示する点で、両者は共鳴している。しかし村上の場合、その表面には日本的キャラクター文化、かわいさと幼児性、そして消費に内在する暴力性が強く刻印されている。無垢に見える表面は、消費社会における欲望の極限を、より内側から露呈させる装置となっている。

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この工業的な表面性は、やがて平面作品にも持ち込まれる。村上隆の絵画は、筆触や身体的格闘を前面に出すのではなく、均一な発色と滑らかな絵肌によって成立する。その制作の中心にあるのが、シルクスクリーンという技法である。スキージを一引きすれば、一瞬で画面が立ち上がるあの工程は、「描く」という行為を、設計と転写のプロセスへと変換する。そこにあるのは、身体の即興性ではなく、判断と承認の積み重ねである。

この「描かない」絵画は、逆説的に日本美術史との深い親和性を示す。日本画や屏風絵は、もともと輪郭線と面による構成、反復可能な図像、分業的制作体制を特徴としてきた。下絵を描く者、塗る者、金箔を置く者が役割を分担する工房制は、個人の筆致よりも、様式と完成度を優先するシステムだった。村上は、シルクスクリーンとスタジオ制を通じて、この日本的制作思想を現代的に再起動したとも言える。

2000年代以降、彼は明確に日本美術史へと踏み込み、宗達や光琳、若冲といった古典の構図やモチーフを引用し始める。それは伝統への回帰というより、グローバル市場を経由した再翻訳の試みだった。アニメやキャラクターという戦後的・輸入的文化から出発し、最終的に日本の深層的図像へと潜っていくその動きは、ローカルとグローバルを往復しながら、文化資源を回収・再編集するプロセスとして理解できる。

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同時に、村上隆は制作体制そのものを大きく変質させていく。スタジオは組織化され、制作は分業化され、彼自身は現場で手を動かす存在から、全体をディレクションし、最終的に承認する主体へと移行する。この転換は、日本語のニュアンスで言えば、「制作」が「製作」へと変わった瞬間でもあった。個人の身体と時間が介在する制作から、工程管理と品質管理を前提とした製作へ。カイカイキキという企業体は、そのための装置として機能する。

この体制のもとで、作者性は再定義される。作者とは、描く人ではなく、決める人であり、署名し、責任を引き受ける存在となる。その結果、偶然性や失敗のリスク、身体と絵の格闘は後景に退き、代わりにスケール、再現性、世界的な可読性が獲得される。作品単体の出来事性が希薄化したという批判は避けがたいが、その違和感こそが、村上隆のプロジェクトの核心でもある。

制作体制の変化に伴い、村上隆の作品からは、近代絵画が重視してきた「描く身体」や筆触の痕跡が前景から退いていく。そのことはしばしば、身体性の喪失として語られてきた。しかし、この変化を単純な欠落として捉えるのは正確ではないだろう。むしろ村上の実践においては、身体性の所在そのものが移動していると考えられる。

出典:Artpedia/村上隆

シルクスクリーンによる均質な表面や、分業化されたスタジオ制作は、作家個人の身体的格闘を不可視化する一方で、膨大な判断と承認の積層を要求する。どの図像を採用し、どの色を重ね、どの段階で完成と見なすのか。その連続的な決断の総体が、スタジオ全体を一つの身体のように機能させている。ここでは身体性は、絵肌に刻まれるのではなく、構造として内在化されているのである。

この転換は、絵画の身体性を「作家の手」から解放する試みとも言える。日本美術史においても、工房制や分業による制作は決して例外的なものではなかった。村上隆はその系譜を現代に引き寄せ、グローバルな制度と市場の中で再構成した。その結果、身体性は感覚的な痕跡としてではなく、制作システム全体の運動として現れるようになった。

こうした制作・製作の転換は、彼の活動を作品制作の枠外へと押し広げた。ルイ・ヴィトンとのコラボレーションに象徴されるように、スーパーフラットのキャラクターは高級ブランドのプロダクトに展開され、ポップとラグジュアリーの境界を溶解させる。カニエ・ウェストやファレル・ウィリアムスとの協働も、音楽、ファッション、視覚文化を結びつける巨大なネットワークを形成した。絵画、立体、グッズ、展示、イベント、それらすべてが一つの設計思想のもとに配膳され、観る者・使う者を巻き込む祝祭となる。

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このとき村上隆は、単なる作家ではなく、文化の編集者であり、配膳人となる。美術館の内部に閉じていた芸術的要素は、消費空間や日常生活へと解放され、高級食材と屋台の具材が同じ皿の上で共存する状況が現実のものとなる。スーパーフラットとは、視覚的快楽の提供であると同時に、文化がどのように平坦化され、流通し、消費されるのかを示す理論でもある。 こうして見ていくと、村上隆は単なる商業主義的ポップアーティストでも、模倣的なポップ文化の再現者でもない。異質な文化要素を精緻に平坦化し、理論的に統合し、さらに社会的消費の文脈まで含めた巨大なシステムとして提示した点に、その特異性がある。スーパーフラットは、一皿のカツカレーのように、すべての要素を対等に並べ、混ざり合うことで新しい味を生む。その巨大な舞台を現実の制度と市場の上に構築したことこそ、村上隆が21世紀美術史に刻んだ最も大きな痕跡なのである。

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