
映画「国宝」を見ている途中から、マルセル・カルネの『天井桟敷の人々』の記憶が不意に立ち上がってきた。物語の細部が似ているわけではない。呼び起こされたのは、才能や芸が人に与える自由ではなく、むしろ人を縛り、消耗させ、個人の人生を超えて持続してしまうものとして描かれる、その冷たい感触だった。
「国宝」は、ある伝統芸能の世界を舞台に、才能を見出され、その身体を芸に差し出して生きる人物の歩みを描いている。そこでは成功や名声といった分かりやすい上昇物語よりも、芸を身につける過程で身体がどう変質し、人生の選択肢がどのように狭められていくのかが、静かに積み重ねられていく。物語は劇的な事件よりも、稽古、舞台、継承といった反復の時間に重心が置かれ、芸が個人の内側から湧き出るものではなく、外部の制度や歴史によって身体に刻み込まれていく過程そのものを映し出している。
「国宝」において、芸は自己表現ではない。内面を語る言語でも、世界と対話するメッセージでもない。それは身体に刻み込まれ、反復され、継承される型であり、個人の意思とは別の論理で作動する装置に近い。才能とは、何かを獲得する力ではなく、引き受けてしまった以上、降りることのできない状態を指している。

この感覚は、『天井桟敷の人々』における舞台とまったく同質だ。カルネの映画でも、舞台は夢の場所であると同時に、現実以上に非情な秩序を持つ。芸を持つ者は輝くが、その輝きは観客と制度に回収され、私生活や幸福とは結びつかない。才能は祝福ではなく、時代が個人に宿してしまう何かのように描かれている。
ここで思い出されるのが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』における羊である。羊は思想や悪意を持たない。ただ、人を通して作用する力であり、たまたま選ばれた身体に宿る。羊を宿した者は成功や影響力を得るが、その代償として主体性を失う。重要なのは、羊が去ったあとに残る空白こそが、主人公にとって唯一のリアルとして描かれている点だ。

「国宝」における才能や芸も、同じ構造を持っている。それは個人の資質というより、身体を媒介にして歴史や制度が作動するための通路である。芸は人の内面を豊かにするものではなく、むしろ個人を透明化し、置き換え可能にする。才能があるからこそ、その人は「個人」としては消えていく。
この芸術観は、どこか古い。だが、その古さがあるからこそ、『天井桟敷の人々』という古典と「国宝」は共鳴する。芸とは人生と引き換えに差し出すものであり、才能とは人を幸せにするとは限らないという感覚。これは、芸術がまだ生き方そのものを要求していた時代の残像である。
一方で、この感覚は、デプレシャンの映画で感じた漂うような体験や、新海誠作品の感覚とは明確に異なる。デプレシャンの映画において印象に残るのは、物語よりも、観客の少ない映画館の空気や、座っていたシートの感触のような、回収されない時間である。そこでは何かが宿るというより、むしろ何も宿らない身体の状態が肯定されている。
新海誠作品は逆に、物語、映像、音楽が強く同期し、観客の身体にある種の感覚を積極的に宿らせる。多世界解釈や運命の選択といった主題は、アニメーションという前提によって、何が起きても受け入れる観客の能動性を引き出す。そこでは身体は拡張され、知覚は増幅される。これはこれで、現代的なリアリティを持つ表現である。
しかし「国宝」が描くのは、そのどちらでもない。拡張でも漂流でもなく、固定である。才能が宿り続ける身体、芸から逃れられない人生、舞台に縛り付けられた存在。その重さが、見ている側にもじわじわと伝わってくる。

だからこの映画を見て、居心地の悪さを覚えるのは自然なことだ。それは作品の欠点ではなく、むしろ意図された効果である。ここでは、才能は希望として提示されない。芸は救済にならない。その代わり、芸が社会や歴史の中でどのように人を使い、消費してきたかが、淡々と示される。
AIやSNSによって、イメージや意味が過剰に生成され、流れすぎていく現在において、この重さは異質である。だからこそ、「国宝」は古い感触をまといながら、逆説的にいまの状況を照らし返す。すべてが軽く、選択可能で、やり直し可能に見える世界に対して、降りられないもの、回収されない犠牲、引き受けてしまった身体の不自由さを突きつける。
「国宝」を中心に据えると、これまで語ってきたすべてが一つの問いに集約される。
表現とは何を語るかではなく、
何が身体に宿り、何が去っていくのか。
その問いは、映画だけでなく、絵画や音楽、文学、そしてこれからの表現全体に、静かに重くのしかかっている。



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