マシュー・バーニー ― 硬化する身体と幸福停止の美学
マシュー・バーニーの作品は、強い造形的印象や神話的なモチーフにもかかわらず、鑑賞後に明確な理解や快楽を残さない。そのわかりにくさは、1990年代的シニシズムやゴシック趣味として説明されることも多いが、そこには単なる時代様式では回収できない違和感がある。本稿では、バーニーの表現を身体・制度・編集という観点から捉え直し、カツカレーカルチャリズム(多文化性、境界横断性、余剰性、そして「美味しそうに見える幸福」)との関係の中で位置づけていく。

スポーツ身体から作品フォーマットへ
マシュー・バーニーの出自として語られるアメリカンフットボールの経験は、単なる異色の経歴ではない。それは彼の表現の核にある「管理された身体」という問題を端的に示している。スポーツにおける身体は、個人の意思や感情以前に、測定され、鍛えられ、制度に組み込まれる。勝利や栄光は個人に帰属するように見えて、実際にはルール、医学、トレーニング、資本、観客の視線といった外部条件の総体によって成立している。バーニーはこの構造を離脱するのではなく、むしろ持ち越したまま美術へと転位させた。 彼の初期作品において、身体は自由に躍動するものではなく、拘束され、負荷をかけられ、テストされる存在として現れる。それは表現する身体というより、実験される身体であり、勝者の肉体が祝福される瞬間をあえて遅延させる装置でもある。ここですでに、彼の態度は自己表現的ロマン主義から距離を取り、身体をフォーマットとして扱う方向へと向かっている。
映像、彫刻、インスタレーションの混線
バーニーの作品が理解しにくい理由の一つは、その表現形態が明確に分類できない点にある。パフォーマンスでありながら記録映像として編集され、映像でありながら彫刻やインスタレーションのための部品として機能する。展示空間にはミニチュアのようなオブジェや、舞台装置を思わせる構造物が配置され、それらは物語を語るためというより、儀式的な雰囲気を固定化するために存在している。 この混線状態は、ジャンル横断的というより、ジャンルを意図的に不全化する試みと捉えた方がよい。どのメディアも完結せず、鑑賞者は「何を見せられているのか」という判断を保留させられる。ゴシック的、退廃的と形容されがちな雰囲気は、感情移入を誘うためではなく、むしろ距離を生むために機能している。

ナルシシズムの反転とグロテスク
バーニーの身体表象には、しばしばナルシシズムとグロテスクが同時に存在する。鍛え上げられた肉体、英雄的な自己像を想起させる構図が用いられながら、それらは必ず拘束、変形、分解のプロセスにさらされる。ここには、自己愛がそのまま誇示へと転じるのではなく、制度化された自己像として硬化し、怪物化していく過程が示されている。 この点で彼の作品は、英雄が闇へと堕ちる物語、すなわちダース・ベイダー的構造を想起させる。しかし重要なのは、堕落のドラマが感情的に語られないことである。悲劇性は冷却され、神話的フォーマットだけが残る。主体は内面を語らず、ただ仕様として提示される。
物質、分解、そして西欧的身体観
バーニーの作品に見られる有機物や物質の扱いは、身体を「自然に還るもの」として詩的に回収する態度とは異なる。肉体は分解され、変質し、他の物質や構造と混ざり合う。そのプロセスは救済的ではなく、観察的である。ここには、西欧近代における身体観、すなわち身体を物質として、管理可能な対象として捉える視線が強く反映されている。 この物質的身体観は、精神や魂といった超越的概念への回収を拒み、あくまで制度と物質の相互作用の中に身体を留める。結果として作品は冷たく、しかし異様な魅力を放つ。

カツカレーカルチャリズムとの接続
カツカレーカルチャリズムは、本来、異質な要素を同一平面に盛り付け、矛盾を解消しないまま「美味しそうに見せる」文化的態度である。多文化性、境界横断性、余剰性は、最終的に幸福のイメージへと回収される。しかしバーニーの表現は、その直前で止まる。異種混交は徹底され、編集も高度で、視覚的強度も高い。それでも「美味しい」という感覚には到達しない。 彼の作品は、カツカレーが完成する寸前、揚げすぎたカツと過剰に煮込まれたルーが皿に盛られた状態に近い。見た目は強烈だが、食べる行為は試練となる。この幸福の停止こそが、バーニーの態度であり、同時に彼の現代性でもある。
幸福を止めるという選択
マシュー・バーニーは、優秀であること、才能を持つことが必ずしも救済につながらない時代を、早すぎる段階で造形化した作家である。彼は反抗もしないし、癒やしも提供しない。ただ、硬化した身体と制度の関係を、完璧なフォーマットとして固定する。その結果、作品は難解で、満たされないが、忘れがたい。 カツカレーカルチャリズムが幸福の編集であるならば、バーニーはその編集を拒否し、素材が衝突したままの状態を提示する。そこにあるのは、現代において私たちが何を食べさせられてきたのかを、沈黙のうちに示す皿なのである。



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