なぜ、あの映画はいまの感覚とつながってしまうのか ― アルノー・デプレシャン『そして僕は恋をする』について

映画

もう30年近く前に見たアルノー・デプレシャンの映画『そして僕は恋をする』を、なぜいまになって思い出したのか。しかも、単なる記憶の喚起ではなく、現在考えている問題意識と不思議なほど滑らかにつながってしまう感覚として。
それは懐かしさでも、再評価でもない。むしろ、当時はうまく言葉にできなかった感触が、いまになって別の文脈の中で浮上してきた、というほうが近い。

この映画を見たとき、確かに内容は理解していた。知的で饒舌な登場人物たち、恋愛と仕事、友情と自己嫌悪が絡まり合う関係性。だが、観終わったあとに残ったのは、筋や主張ではなく、「漂っていた」という印象だった。
何かが進んだという手応えはないのに、時間だけは確かに経過している。その奇妙な宙づり感を、当時の私は「少しトリュフォーみたいだ」と感じたのだと思う。

いま振り返ると、その直感は決して的外れではなかった。
トリュフォー的であるとは、軽やかであることでも、青春的であることでもない。むしろ、人生や感情がまだ整理されていない状態のまま、決着を先送りにして差し出されることにある。理解や成長が完了する前に、映画が終わってしまう。その未完了性が、観客の中にだけ残される。

アルノー・デプレシャン

デプレシャンのこの映画もまた、語りに満ちているにもかかわらず、何も確定しない。登場人物たちは延々と話し続けるが、その言葉は状況を整理するためというより、耐えるために発せられているように見える。語れば前に進める、という近代的な信念は、すでにこの時点で弱まっている。

90年代半ばという時代を考えると、これは決して偶然ではない。
理論はすでに飽和し、アイデンティティは複数化し、何かを断言すること自体が重荷になりつつあった。混成は例外ではなく前提になり、語りは増え続ける一方で、手応えは薄れていく。
『そして僕は恋をする』は、その状態を批評的に整理することも、克服することもしない。ただ、その宙づりの時間を、映画として保持している。

だからこの映画は、「押し出す」力を持たない。観客に何かを理解させたり、方向づけたりしようとしない。代わりに、少し長すぎる時間、少し回り道の多い会話、どこにも収束しない感情を、そのまま差し出す。
結果として、映画は何かを起こす装置ではなく、起こりすぎてしまう世界の流れを、いったん緩める場所になっている。

いま、SNSやAI生成画像に囲まれた環境の中で、私たちは意味や物語が即座に生産・消費される速度にさらされている。理解できること、説明できることは、もはや価値の保証にはならない。その状況で、あらためて「とどまる」「漂う」「回収されない」体験が、リアルとして立ち上がってくる。

30年前の映画が、いまの感覚と通底してしまう理由は、そこにある。
この映画は未来を予見していたわけではない。ただ、すでに当時から、「語っても届かない」「進もうとしても進めない」という感覚を、解決せずに保存していた。その保存のされ方が、今日の環境において、思いがけず鮮度を持ってしまった。

重要なのは、この映画が「わかりにくい」から残ったのではない点だ。
むしろ、わかってしまいそうになるのに、最後まで決定打を与えない。その中途半端さ、未処理のまま残る時間が、観客の身体のどこかに沈殿していた。だからこそ、30年後、別の問題意識の中で、不意に浮かび上がる。 『そして僕は恋をする』は、いま見返しても「新しい映画」ではないだろう。
だが、流れすぎる世界に対して、速度から降りる感覚をすでに内包していた映画として、いまなお有効である。
それは、映画が何を語ったかではなく、どのような時間をとどめてしまったかによって、現在とつながっている。

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