揺らぎのユートピア ― 大岩オスカールと未決定の世界線

寓意を拒む風景
近年、大岩オスカールの絵画はしばしば「不思議」「寓意的」「終末的」といった言葉で語られてきた。しかし彼の作品に向き合うとき、まず確認すべきなのは、それらの語が必ずしも的確ではないという点である。大岩の描く都市や建築は、確かに象徴性を帯びて見える。無人の空間、歪んだ遠近、内外が反転するような視点。それらは観者に「意味」を探させる。しかし、そこで立ち上がるのは寓意画におけるような一義的な読解ではない。彼の絵は、読むことを誘発しながらも、決定的な答えを与えない。
寓意画とは本来、死や虚栄、救済といった観念を、共有可能な記号体系によって可視化する形式である。だが大岩の絵画には、そのような象徴の辞書が存在しない。瓦礫は瓦礫であり、建築は建築である。それ以上でも以下でもないにもかかわらず、そこには強い「語りかけ」がある。この矛盾こそが、大岩の絵の出発点である。彼の作品は意味を伝えるのではなく、意味が発生してしまう状態そのものを提示している。寓意を拒否しつつ、寓意的に読まれてしまう構造。そこに、現代絵画としての彼の位置がある。

不安ではなく揺らぎとしての世界
大岩オスカールの絵を前にしたとき、多くの観者が抱くのは恐怖や絶望ではない。それは「不安」という言葉ですら言い切れない、もっと曖昧な感覚である。世界は崩壊していない。建物は立ち、光は差し込み、空間は成立している。しかし、そのどこにも確かな重心がない。安定しているはずのものが、いつのまにか揺らいでいる。
この揺らぎは、危機的な断絶や破局から生じるものではない。むしろ、均衡が保たれたまま固定されない状態から生まれている。時間軸も同様である。そこは未来の廃墟でもなければ、過去の記憶でもない。現在であるようでいて、現在とも言い切れない。観者は、時間のどこにも着地できないまま、その空間に立たされる。
この感覚は、終末論的なディストピアとは明確に異なる。大岩の世界には、破壊の決定的瞬間も、回復の兆しも描かれない。ただ、世界がまだ一つに決まっていないという事実だけが、静かに持続している。そこにあるのは不安ではなく、安定しない揺らぎであり、未来と過去が分岐したまま併存するパラレルな世界線なのである。

ユートピアの蜃気楼、イデアのVR
このような世界を、ユートピアと呼ぶことはできるだろうか。大岩オスカールの絵画に描かれているのは、理想郷でも反理想郷でもない。それでもなお、彼の空間がディストピアとして感じられないのは、ユートピア的な可能性が否定されていないからである。
大岩のユートピアは、完成された理想像ではない。それは到達点として提示されるのではなく、あたかも蜃気楼のように、遠景として立ち上がる。見えてはいるが、触れることはできない。近づこうとすると、輪郭が揺らぎ、形を変える。この点で、彼の絵画は「ユートピアの蜃気楼」と呼ぶにふさわしい。
同時に、それは「イデアのVR」とも言える。彼の描く空間は、理想そのものではなく、理想が生成される環境だけがレンダリングされたような状態にある。そこには臨場感があるが、没入はできない。観者はユーザーではなく、テスト段階の観測者にとどめられる。視点は固定され、操作は許されない。ユートピアは体験されるのではなく、起動しかけのまま保留されている。
ここで重要なのは、この未完性が欠如ではないという点である。むしろ、大岩は意図的にユートピアを完成させない。完成した瞬間、ユートピアは制度となり、排除と管理を内包するからだ。彼が描いているのは、ユートピアそのものではなく、ユートピアが生まれうる条件なのである。

日本/ブラジルという未決定の視点
このような世界観は、大岩オスカールの生い立ちや社会的背景と無関係ではない。ブラジルに生まれ、日本で育ち、さらに国外で活動するという経路は、彼に一つの確固たる帰属意識を与えなかった。しかしそれは、断絶や疎外として表象されることもなかった。代わりに彼の中に形成されたのは、「どこにも完全には属さないが、どこからも排除されてはいない」という視点である。
ブラジルは、近代以降、未来国家や混血のユートピアとして語られてきた場所である。しかしその未来は、常に未完のまま先送りされてきた。一方、日本の風景観には、人が去った後や、使用前の空間といった、時間が宙づりになった状態が色濃く存在する。大岩の絵画に見られる、終末とも始まりともつかない時間感覚は、この二つの文化的条件が重なった結果と考えることができる。
さらに、移動を前提とした人生は、彼に当事者でも神でもない「観測者の視点」をもたらした。その視点は、世界に没入することも、完全に外部化することも拒む。だからこそ彼の絵は、VR的でありながら、決してログイン完了しない。日本/ブラジルという背景は、アイデンティティとして主題化されるのではなく、世界の見え方そのものに沈み込んでいる。

カツカレーカルチャリズムとしての大岩オスカール
このように見てくると、大岩オスカールの絵画は、カツカレーカルチャリズムの文脈と深く共鳴していることがわかる。彼の作品は、純粋性や完成度を競うものではない。かといって、過剰な混成や派手な引用によって「映え」を狙うわけでもない。彼の絵は、異なる要素が混ざりきらないまま、同じ皿の上に置かれている状態を肯定する。
そこでは、どの要素も主役にならない。未来も過去も、理想も現実も、どれか一つが勝利することはない。この「決めきらなさ」こそが、大岩の絵画の倫理であり、美学である。それは、完成された美味しさではなく、味が決まる前の幸福を引き受ける態度と言えるだろう。
大岩オスカールの絵画は、世界が一つだと信じられなくなった後の風景画である。しかしそれは、絶望の記録ではない。むしろ、複数の世界線が併存する状態に、静かに慣れてしまった視点の表現である。ユートピアは蜃気楼として遠くに揺らぎ続け、イデアはVRとして起動しかけのまま停止している。その未決定性を否定せず、固定もしない態度の中に、今日の絵画としての大岩オスカールの強度がある。



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