ヒップホップとしてのバスキア ― ジャズ的回収を越えて、カツカレーカルチャリズムへ

バスキアはなぜ「ジャズ」として語られてきたのか
ジャン=ミシェル・バスキアは、しばしば「ジャズ的即興性」を持つ画家として語られてきた。画面に散らばる断片的な言葉、荒々しい線、反復されるモチーフ。それらは確かに、即興演奏やリズムの変奏といったジャズの語彙と相性がよい。実際、バスキア自身がジャズ・ミュージシャンへの言及を作品中に繰り返し行っていることも、この読みを補強してきた。
しかし、この「ジャズとしてのバスキア」という理解は、彼の作品を説明するために選ばれたというよりも、美術史の側が受け入れやすい枠組みとして機能してきた側面が強い。ジャズは20世紀後半にはすでに高度に制度化され、「高尚な黒人文化」として美術館や大学の中に居場所を獲得していた。即興性や精神性、洗練といった語彙によって語ることが可能であり、前衛美術や表現主義の系譜にも無理なく接続できる。
その結果、バスキアはネオ・エクスプレッショニズムの一員として位置づけられ、孤独な天才画家、内面の衝動をキャンバスに刻みつけた表現者として神話化されていった。この読みは決して誤りではないが、同時に多くのものを覆い隠してもきた。

ヒップホップとして読むと、何が立ち上がるのか
バスキアの作品をヒップホップとして読むと、評価の軸が大きくずれる。ジャズが「即興による表現の深化」を前提とするのに対し、ヒップホップは「既存の断片を切断し、再配置すること」から始まった文化である。サンプリング、ループ、反復、盗用。そこではオリジナリティとは新たに生み出すことではなく、すでにあるものをどう使い、どこに割り込むかという実践にある。
バスキアの画面に散在する言葉や記号は、意味を統合するために配置されているのではない。医学用語、歴史的固有名詞、商品名、黒人アスリートや音楽家の名前。それらは関係づけられることなく併置され、時に消され、上書きされる。これは内面の流出というよりも、文化的・歴史的断片を強引にサンプリングし、美術の画面にノイズとして挿入する行為に近い。
ヒップホップ的に読むと、バスキアの作品は「演奏」ではなく「トラック」になる。一点一点の完成度よりも、反復されるフレーズやモチーフがどれだけ強く場に残るかが重要になる。身体は表現のための楽器ではなく、歴史や制度の暴力が刻印された現場として現れる。言葉が身体に貼り付き、骨や歯が露出するのは、表現のためではなく、証拠を提出するためである。

なぜ美術史はヒップホップを避け、ジャズに回収したのか
ヒップホップとしてのバスキアは、美術史にとって不都合な存在である。なぜなら、ヒップホップは「継承」や「発展」という直線的な歴史叙述を拒否するからだ。そこにあるのは断絶と奪取、非正統な接続であり、制度の外部からの介入である。
この読みを採用すると、避けられない問いが浮上する。誰が教育から排除されてきたのか。誰が表現と落書きを分けてきたのか。誰が歴史を書く側で、誰が書かれる側だったのか。これらの問いは、作品の外にある美術史そのものへと向かってしまう。
ジャズへの回収は、こうした問いを無害化する。政治性は内面化され、暴力は表現へと昇華される。バスキアは「偉大な表現者」となり、美術史は自らの枠組みを揺るがされずに済む。市場や教育制度にとっても、その方が扱いやすい。ヒップホップ的な逸脱や違法性、ノイズはカリキュラム化できないからである。

カツカレーカルチャリズムとしてのバスキア
ここで、カツカレーカルチャリズムという視点が決定的な意味を持つ。カツカレーとは、本来混ざる必然のないものが、状況的・身体的な要請によって一皿に盛られた料理である。純粋性よりも満腹、洗練よりも効き目。雑種性、境界横断性、余剰性、そして「美味しさ(映え)」の肯定。
ヒップホップは、この論理が音楽として結晶した最初の文化形態であり、バスキアはその視覚芸術的等価物に近い。彼の画面には、知の制度を象徴する言葉、黒人身体史の重み、王冠という過剰なトッピング、市場という皿が同時に存在している。整理も説明もされないが、そこには生き延びるための切実さがある。
カツカレーカルチャリズムの重要な点は、そこにケアが含まれていることである。それは誰かを満たし、支えるための混成であり、単なるスタイルではない。バスキアの作品が放つ強度は、このケアと暴力が分離されていないところにある。

成功しすぎたカツカレーの副作用
しかし、カツカレーが成功すると何が起きるか。レシピが語られ、再現可能になり、「ちょうどいい雑種性」が評価される。バスキア以後、多くの作家が文字や落書き、荒さを取り入れてきたが、それはしばしば混成の結果ではなく、混成の演出にとどまった。
バスキア自身も、この副作用を最初に引き受けてしまった人物だった。市場での成功、ポップアイコン化、消費の速度。それらは彼の身体が耐えられる限界を超えていた。だからこそ彼の作品には、休むことのない密度と上書きの痕跡が残り続けている。
今日、雑種性や境界横断はもはや前提条件となり、ヒップホップ的手法も一般化した。その中でバスキアがなお参照され続けるのは、彼の作品が「成功のモデル」ではなく、「回収しきれなかった失敗の痕跡」を含んでいるからである。
バスキアをジャズとして読むことは、彼を偉大な表現者として確定させる。一方、ヒップホップ、そしてカツカレーカルチャリズムとして読むことは、彼を美術史に割り込むノイズとして再び不安定化させる。その不安定さこそが、今日においても彼の作品が効き続ける理由である。 バスキアは、完成された名作ではなく、何度も誤読され、使われ、回収されながら、それでもなお異物として残り続ける存在なのである。



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